ページビューの合計

2009年5月22日金曜日

「断らない力」もあるはずだ(5)

さて、断れないのは、主張がないことを意味しているという。 ほんとうにそうだろうか。
日本人が、自己主張をしないことは一般によく言われる。ノーといえない日本人、あいまいな日本人の背景に、あまり自分の意見をいわないことも、日本人のよくない点とされる。
たしかに、国際的な会議でも発言は少ないし、欧米人や中国人が、口にあわを飛ばしながらよくしゃべるのに対して、日本人は沈黙をむねとしているともみられている。
しかし、主張をすることはそんなに価値があることなのか、価値が高いことなのだろうか。2つの点で疑義がある。第1に、根拠があいまいにもかかわらず、主張するのは偽装ではないだろうか。いいかえれば、無知にもかかわらず、本人が理解していないだけなのに、自己主張を強調することはあまりにもピエロにしかみえない。
ある高名な学者が強く主張している時に、その根拠をたずねたら一言、日本人は単一民族だからと、いわれ唖然としてしまったことがある。彼は単に地位を利用していいかげんな主張していただけである。合理的で妥当な根拠があったわけではなかったわけだ。
第2に、明確に主張をするということは、いわば、ゼロとイチ、にわけろ、yes、noをはっきりしろということだが、簡単に2つに分けらることはそんなに価値が高いことなのか。あいまいであったり、その中間的な解がある場合はすくなくない。それをはっきりしろとせまって、中間を排することは、誤りしかおもえない場合が経験的にも多い。英語でさえ、insistということはほとんどない。あえて断定せず、mayを使うことも洗練した表現とされている。また英国では、badといわずnot goodというように婉曲にいうことが奨励される。成熟した言語ほど、あいまいに言いまわす言語技術をもっている。進んだ国だから主張をきちんとするのではなく、成熟しているからこそあいまいな表現をしているのではないか。

2009年5月13日水曜日

「断らない力」もあるはずだ(4)

では、なぜ断らないのか。それは企画の立場を考えてのことなのか。No、。一言で言えば、それはおおきな機会だと考えているからだ。自分のイメージしていないテーマであればあるほど、興味深いチャレンジになる。今までのシナリオと異なる内容を作る機会に恵まれたと考える。もちろん、気に入らない依頼もないわけではない。特に原稿依頼に多い。しかし、内容を作る前に、自分をつくることを大事にしている。自分の気持ちを作る前には、つまり、その気になる前には決して書き始めない。
もうひとついえば、依頼者に貸しを作ることの価値である。人的ネットワークが大事とはよく言うが、単に友達を作るだけが大事なのではなく貸し借りを作ることが重要だとおもっている。貸しをつくれば、次には依頼しやすい、借りていれば、何かで返そうとする、そのような付き合いが、貸し借りであり、ビジネスの基本だ。
一回一回を機会主義的に、是々非々で対応する人をあまり信じないことにしている。そのような人は、いざと言うときに助けてくれないからだ。自分ひとりでは多くのことはできない、人の助けなしにはおおきな仕事ができないのは当然だ。そのときに、助けてくれる人、できれば細かいことをいわずに、すぐに応援してくれる人たち、これを人的ネットワークとぼくは読んでいる。こういうネットワークを築くためにも依頼はできるだけ断らない、いわば資産になりうると考えているからである。

2009年5月11日月曜日

「断らない力」もあるはずだ(3)

依頼するときには、ある期待をもって適任と判断したから仕事を依頼する。それを断る人は、期待にこたえる能力と自信がないのだと判断されるかもしれない。さらに、たいした根拠もなく、断る人を、信用できない人として、2度と、依頼しないかもしれない。依頼する側を経験した私は、まちがいなく、そう思った。決して、自己主張のある、能力のある人とは思わなかった。
最近、おこったことだが、適任として依頼したが、内容に自信がもてない、まだ、未完成だだということで、断ってきた。その内容は、とても、光るものがあるから、進行段階の内容でいいから、話してほしいといったが、それでも、断ってきた。こうなると、実は、無内容なのではないか、あるいは、私に悪意を持っているのではないかと疑ってしまう。そして、2度と依頼することもないし、逆に依頼されても断ろうと思ってしまう。

2009年5月10日日曜日

「断らない力」もあるはずだ(2)

私が断らないのはなぜか。もちろん、すべてが気に入った企画であるわけもなく、そして、私が必ずしも適任だろうか、という疑問をもつことのもしばしばある。では、なぜ、断らないのか。
今までの仕事のなかで、依頼することのほうが多かったことはひとつの理由である。依頼する側の経験からいえば、断られることが一番、いやなことであることもよく理解できる。依頼するときの状況からすれば、明確に依頼内容を定義できていないこともあるし、単に、講演依頼に多いのだが、全体の基調となる話を、一定時間埋めてくれることが一番期待されている。聴衆の満足を与える内容であることはももちろん、重要であるが、時間オーバーであったり、遅刻したり、全体とチグハグな内容であたり、ドタキャンなどのリスクのない講師、そして、断られないことは、非常に重要である。断られれば、また、いちから次を探さないといけない。そして、開催時期が近くなるほど、断られるリスクは大きくなる。予定が入ってしまっている可能性が高いからである。
私に依頼が来るとき、どうみても、ほかを断られた末に、私にたどりついたと察せられる案件もしばしばある。その意味では、企画サイドからすれば、私は断られない部類に属しているのかもしれない。では、そこで断らないのは、自己主張のない行為なのか、生産性を悪化させる行為なのか。あらためていえば、時間的問題がなければ、断れないのではなく断らないのである。なぜか。

2009年5月5日火曜日

「断らない力」もあるはずだ(1)

勝間さんの「断る力」を読みながら、「断らない力」というのも意味があるように思えた。
私は、依頼された仕事、たとえば講演、原稿、委員の依頼を、時間の都合がつく限り、まずほとんど断らない。したがって、勝間さんからいわせれば、おそらく、自己主張ができず、生産性が悪い、いわゆる仕事が出来ない人間と分類されるに違いない。
しかし、私は確信犯的に、断らないことにしている。やむなく断らないのではなく、断らないことを、基本としているし、自分の生き方の戦略だとさえ思っている。
では、それは自己主張しないことになるのか、生産性を悪くすることなのか、いくつか述べてみたい。

2009年5月2日土曜日

勝間和代さんの『断る力』を読んで

話題のベストセラーを読んでみた。楽しい本だった。断ることができるということは、イコール自己主張ができるということで、これがかけているから、仕事ができないのだ。断れない、しなくてもいい仕事を抱え、生産性を悪くしている。当然、成果もでない。まず、断ることが大事なのだという主張は、さすが、キャリアウーマンの代表たる勝間さんの面目躍如といったところであろうか。
海外の会議などで安易にyesといったり、うなづいてはいけないというのは常識で、yesといわずgood程度でお茶をにごすのは、よくやる手だ。そして、No、あるいはI can't understandといわないといけない。もちろん、ベルリッツのCMではないが、Noといった途端にWhyと聞かれるのがいやだから、英語で説明するのがいやだから、とりあえず、Noと言わないことにしよう、とはありがちなことだ。もちろん、外交でも同じで、石原知事が昔、出版したように、「NO」と言える日本、はだいじなことだ。この本は、そこにも一脈通じるものがある。
このような文章がまだ、ベストセラーになることに、一抹の感慨がある。まだ、女性がこういう発言をすることを好む風潮が、日本のなかにあることに驚きを感じてしまった。多くの女子大生をみていても同じように感じることがある。自己主張は、たしかに男性よりも強くなっているように思えることは多い。はっきりとものをいい、ことわるときははっきりことわる。それに比べて男性がはっきりものをいわず、やわに見えてしまうのも、あるいは、当然なのかもしれない。したがって、断れることが能力だと見てもおかしくない。しかし、それは過信なのではないだろうか。はっきりものをいうことが、はっきりものをいわないことよりも、常に、優位だとは思えない。「断れない」、ではなく、「断らない」ことが、重要な能力である場合も少なくないのではないか。

2009年4月9日木曜日

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか(2)

学会を設立するときの思いは多様ではあるが、共通して研究するためのコミュニティ、研究の場と交流の場を作りたいという気持ちであることがほとんどである。
しばらくすると、学会関係者の多くは次のような希望をもつようになる。日本あるいは、世界に知られるような学会になりたいと。そのために、学術会議に登録され委員や理事を送ることで影響力を高め、各の高い学会といわれるようになりたいと。
たしかにそうなることで学会メンバーも格の高い学会に加入し、そこで学会誌の格もあがると考え、それは会員のメリット、サービス向上にもつながると考えるのは当然である。そして各の高い学会誌にふさわしいようにと投稿論文への査読も強化し、質の高い論文を掲載しようと投稿要領の改訂や制度の充実を図ろうと尽力する。決して割ることでなかったはずである。
しかしながら、現実は、そうはいかない。各の高い学会誌になろうとすればするほど質が低下する。学会メンバは、学会誌の質の低下を嘆くようになる。まさしく、ここに学会誌のパラドックスが生じることになる。四つの向上を目指したのに、逆に低下してしまうのはどうしてなのか。