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2020年11月26日木曜日

「アトキンソン」の中小企業再編論は有効か

 菅政権の重要な政策として、炭素ゼロ社会、デジタル化と並んで中小企業の再編成があげられている。その背後には、新設された成長戦略会議の民間議員として、首相のブレーンである小西美術工藝社の社長デービッド・アトキンソン氏がいることはよく知られている。彼は、優れた経営者であるばかりでなく、ゴールドマン・サックス社のパートナーも経験した金融アナリストでもある。

 しかし彼が語る中小企業再編への処方箋は様々な反響を呼んでいる。国のGDPは人口に正の相関があるので日本のように人口減少が続けばGDPの低下は避けられない。これを解決するには生産性向上、とりわけ労働生産性、なかでも中小企業の生産性が低いので、対策をとらなければならない。おそらくこの現状認識には異論はないだろう。

 また、中小企業の生産性を悪化させている元凶が政府による手厚い保護政策と日本商工会議所をはじめとする商工団体の圧力にある。事業継続する意欲のない中小企業、事業が改善する見込みのない赤字垂れ流しのいわゆるゾンビ企業に財政的支援や補助金支援をすることで延命させている。このような企業は早く退出させることが、社会的に望ましいという。そういう実態がないとは言い切れないだろう。

しかし、本当に必要な企業に対してだけ助成し、ゾンビ企業を排除するために当該企業の状況を厳密に調査、審査して意思決定するには、多くの工数と期間がかかる。多少の厳密さを犠牲にしても迅速に支援すべきだと国会で批判するけれども、そうすれば悪意の企業が混入することは避けられない。迅速性と厳密性のどこかで、妥協するというのがまさに実務である。まさにガンの部位を正確に探し当てて、抗がん剤を投与するようなわけにはいかない。

もちろんデジタル化による解決策はある。会社からの申請書によるのではなく、企業の基本的データ、企業業績、財務状況、企業の行動データをリアルタイムに把握し、AIのアルゴリスムを駆使して分析すれば、本当に必要な企業を抽出することは決して困難ではない。さらに、一括でく、少額を迅速に補助し、その成果をデータで収集し、追加補助をするというプロセスを経ることで、より効果が上がる企業へ集中的な補助を可能にする。これはまさしくシステム開発におけるアジャイル手法でのイテレーション、すなわち短期間で反復を繰り返しながら、効果的な財政的支援を可能にする。高速でPDCAを回すことである。そのような提起なしに、ゾンビ企業排除を叫ぶのは、実効性に乏しい。

 アトキンソン氏は、中小企業の生産性の低いのは、規模が小さいからであり、そのために、人材不足、財源不足、とりわけ合理化のためのIT投資への余力がないので生産性向上に取り組めないと述べる。したがって、まず規模を拡大して、余力を創出すべきで、それが困難な小規模企業には退出を求めるべきで、退出した労働力を中規模企業に振り向けることで、労働流動性が生まれると考える。そうすれば最低賃金をアップでき、それを支払えない企業は退出せざるを得ないと述べる。この処方箋に、ほとんどの中小企業関係者は反論するに違いない。

1に、中小企業の生産性が低いとしても、その原因が規模の小ささにあるとは言えない。小さくとも高い利益率を確保している企業は少なくない。規模ではなくビジネスモデル、経営モデルの問題と考えるのが妥当だからである。いうまでもなく企業の99.7%は中小企業であり、75%の勤労者は中小企業に勤務し、GDPの約半分は中小企業であるという状況は、中小企業だけの経営の問題というよりも日本の産業構造の問題を示している。大企業は経営努力のみによって生産性が高いのではなく、中小企業の努力によって、さらに言えば、中小企業が非効率性を甘受しているからこそ、達成できている面が少なくない。

例えば、大企業の債務支払いが、手形など世界にもまれな制度によって、60日あるいは90日、さらに120日の長期にわたっていることは周知の事実である。インボイスによる即日支払いが世界の潮流であり、これを実施してこなかった日本の商習慣が中小企業の生産性を低下させている。むしろこの点をアトキンソン氏は忘れている。

近年のクラウドサービスでは、IT環境の整備はもはや先行的な投資ではなく、月数千円から数万円、さらに、無料のサービスから試行できる市場環境からすれば、多くの場合、身の丈、にあったIT化が現実化しいている現在、その大きな阻害要因は、経営者の認識不足以上に、リベートや複雑な税制など、発注企業の商習慣や制度、規制によることが大きい。もはや投資余力の有無によって生産性を議論すべきではない。

中小企業の生産性問題を、決して中小企業自体の経営問題に還元してはならない。オールジャパンで、デジタル化に向け経営者の背中を押すことこそ、不不可欠であろう。

2に最低賃金を上げることが重要な処方箋だと述べることについては多くの反論がなされている。確かに、賃金を上げれば消費に周り、国のGDPを高め社員の意欲を高めることで、企業業績向上、企業の改革促進が期待できるという面があることは期待される。しかし、そこには成功確率と時間軸の議論が抜けている。うまくいっても、それは半年か数年先のことで在り、うまくいく可能性は必ずしも高くない。しかし月という時間軸で見れば、確実に資金が減少し、人件費の増加による経営圧迫は避けられない。それらを同列に見ることは適切とは言えないだろう。

3に、優れた中小企業の規模拡大にむけ、再編を促し、それ以外の企業の退出を促すという思想は、優れた人間だけが残ればいい、偏差値の高い若者を育てようという選民主義に通じるものである。人間も企業も多様であって、とりわけほとんどが中小企業という地方自治体は少なくない。また、サプライチェーンの下請けであるとともに、地域社会の担い手であり、地域において重要な役割を期待されている中小企業は少なくない。郊外のモールによって、シャッター街になってしまい、暗くなり治安も悪化した駅前商店街は多い。地域においては黒字か赤字かではなく地域に根付いて貢献している中小企業が少なくない。切り捨てが及ぼす影響は、決して少なくない。黒字企業だけ残れば、あるいは黒字企業がより成長すればよいという考えは地方都市を疲弊させてしまう。まさしく私たちがとるべき方向は、赤字企業を切り捨てるのではなく一社でも多くの赤字企業を成長路線に乗せることにある。

4は、中小企業を統合再編させる手段として中小企業同士あるいは大企業による吸収などを促すとする考え方であり、M&Aなどを推奨することにある。中小企業に対して、他の企業が、とりわけ事業承継が困難な場合に、他の企業の支援を受けて事業継続できることは有効な手段の一つであることは間違いない。それによって、重要な資源で社員や技術、ケイパビリティを維持できる意義は大きい。しかし、そこには統合再編がうまくいった場合という条件が付く。規模が異なる企業同士の合併吸収は、異なる企業文化、異なる社内システムの統合に伴うコストは予想以上に大きい。中小企業では、十分なデユーデリジェンス(企業査定)が行われないであろうし、大企業同士の合併に比べれば、事前準備、社内了解も不十分である。資本の論理だけではうまくいかない。

1+1が2を上回ることが、まさしく統合の利益である。しかし、2に満たず、1.7であるならば、0.3を切り捨てなければ、統合の利益は見込めない。これらの不利益は政府主導による多少の補助金でも解決しない。統合後のビジネスモデルが描けてなかったからである。そこに必要なのは、十分な支援である。

このようにアトキンソン氏の提起は、現状認識こそ同意できものの、その処方箋は具体性に乏しく役に立たない。もちろん、彼は疑いなく優れた経営者である。しかし名選手、必ずしも名コーチ、名監督とならないように、名経営者の経営方法がどの企業にも当てはまる保証はない。方法だけでなく、人心掌握、求心力も必要である。

日本の中小企業の支援機関、関係者たちの協力なしに、一歩たりとも実現しない。私たちが何よりすべきことは切り捨てでなく、一社でも成長路線に乗せるべく、支援を強化することにある。何より中小企業自身が気付き、企業同士が相互に学び合い、成長への経営者の意思決定、行動へ背中を押すことが必要である。

まさしく、菅総理が語る「自助」「共助」「公助」、なのである。

 

2020年8月22日土曜日

「未来への大分岐」を読んで

 

今を時めく「帝国」の著者マイケルハート、「ポスト資本主義」のポールメイソン、そして「私は脳ではない」、「なぜ世界は存在しないのか」のマルクスガブリエルとの対談集、3人の著書を要約する感じで、非常にわかりやすい。

私は、前々からマルクスガブリエルに関心をもって読んできたので、解説を聞くような楽しさがあった。彼が提唱しているのは、いわゆる新実在論、どこがこれまでの哲学と違うのだろうか。

いわば古典的思想では、キリスト教が絶対真実であり、経典に真実が書かれているとされた。しかしそれを変えたのは、ルネッサンス、グーテンベルグの印刷技術、科学革命、産業革命、いわばまさしく近代とは、真実は客観的で唯一であり、心理の探求によって客観的真実に到達する。それは百科事典に記載される。

それに対して、ポスト近代の主張は、例えば、科学革命の構造に未利用に、真実は、思想を同じにする社会的グループによって構成される、いわば客観的な真実は存在せず、相対的ななものであると、してきた。いわば、公害、地球温暖化など、これまでの科学の弊害を述べて、近代を批判した。

しかし、では、真実はすべて、社会的に構成されるならば、共通なものはないのか、。

カント風に言えば、もの自体は不可知、疑っても疑えない真実がある、超越的、先見的知識があるとする、そこに人間に共通な倫理があるとする。


2020年7月18日土曜日

「アフターコロナ社会、雨の日に、軒先を貸す」

 ある日の朝のこと、バスを待っていたら、雨が降ってきたので、停留所そばの花屋の軒先に移動し、雨宿りをした。少ししたら店内から人が来て、「何をしているんですか、困るんですけど」、といわれたので、開店前なのに、迷惑だろうか、と思いつつ、軒先から外へ出た。

さて、私が軒先にいたことが、店の損失になったのだろうか。おそらくはどこのだれかわからない者が、店のそばにいることが不愉快だったに違いない。しかし、親切なお店だと思われるのも得だと思えるが、そうは考えなかったのだろう。

私たちは、自分の利益を中心に考えるのを利己的、自己の損失を顧みずに他人の利益を図るような行動のことを利他的と呼んでいる。人類は、他の動物以上に、利他的、とりわけ家族というグループを大切にすることで、ここまで生き延びることができたといわれる。もちろん、自分の利益を無視してまで、あるいは自分を犠牲にしてまで、他人を利する行為を行う必要があるのか、という疑問もあるし、自国ファーストを標榜するリーダーが選挙で勝利するなど、その傾向は増殖している。現代でも、利他的行為がすべてのケースで有利とは限らない。 

反省だけなら

今回の新型コロナ問題から、まさしく、平時における、緊急時への備えの大切さについて、私たちは、多くの反省と学びを得た。例えば、社会、産業も、医療業務従事者に多くの負担をかけていることを再認識した。それに伴って、医療に対するこれまでの意識も変化せざるを得なくなった。触診、聴診器に頼る診察から、PCRのような検査重視への意識変化である。さらに、機器だけではなく人手不足、自動化が進んでいないことも明らかになった。いわゆる医療体制である。医療現場でのロボットや自動化機器の利用はなかなか進んでおらず、かつて、原発事故でも使えなかったように、技術革新の成果が医療現場に使えていないことも分かった。今の科学技術に足りないところがあるということなのだろうか。

また、今回の医療をめぐって様々な数値が百出した。検査人数、検査回数、感染者数、接触率、死亡者数などである。その数値の増減が、緊急事態宣言、そして解除までの多くの意思決定に大きな影響を与えている。しかし、その根拠をたどることなく、独り歩きしている現状において、当然ながらそれらの数値への疑問も出てくる。専門家たちが作ったモデルによれば、こういうことが言える、という前提をはるかに超え、政策を過剰にリードしている。統計モデルへの過信をさけるために、モデルは常に実態に合わせて、検証、見直しがなされねばならないはずである。

「現状は人との接触8割削減が実現した場合に想定される感染者数の減少には至っていない」、つまり接触という指標は結果から類推しているのであって、測定しているのではない。接触8割削減は、目標ではなく手段なのである。当初モデルが正しいかどうかの検証もなしに語られ続けており、モデルの押し付けは、科学の押し付けに見える。そんなに科学は、とりわけ統計モデルは絶対ではないはずである。専門家はもっと真理に謙虚であってほしい。

また、給付金のオンライン申請が可能になったが、その先には、地方自治体の人手作業の負担が増大するなど、これまでのデジタル化への取り組みが不十分であったことがあからさまになった。「本サービスで特別定額給付金のオンライン申請が可能となりました。準備のととのった市町村より順次受付を開始しています。」と表示され、これが、市町村ごとにネット申請を受け付けていることを示している。しかしマイナポータルは総務省のサービスであって、そこには住民のデータがない。それは地方自治体のものだからである。国が実施すべき共通サービスと、地方自治体による住民データの管理とをつなげる考えが今の地方分権では、存在しないことがわかる。

今、マイナンバーに口座番号を紐づけしようとしている。一見、これで迅速に給付ができそうに見えるが、しかし、それはありえない。マイナンバーデータには、世帯データも、収入、課税データも、年齢もなく、申請の妥当性を判断できるはずはない。結局、地方自治体が、手作業で、住基データと申請とを照合しなければならない。そんなこともわからず法案だけ作っている。

3密をさけるため、テレワークが推奨されたが、とりわけ多くの中小企業では実施できていないといわれる。テレビ会議はできても、在宅勤務、つまり会社に行かなくても仕事をするには様々な課題があり、その準備ができていないからである。まさしくテレワークとは、会社にいかなくてもよい経営管理であり、これを目指すことが経営改善につながる。

製造業では、しばしば、ものづくりの現場があるから、テレワークができないといわれる。確かに私たちは現場に行け、現場に行けば、現状と改善点がわかると教えられてきた。現場に行かずに現場をわかるというのは、禁句でさえあった。現場に行かなくても、改善ができ、ものづくりが進むなど、ありえるのだろうか。

たとえば、IoTで現場が見える、3Dプリンターでモノが作れる、ロボットでモノを運べる、 人工知能でモノが検査できる、配送業者に出荷指示ができ、電子インボイスで納品請求、決済ができる、まさに見える化とは、デジタル化とは、それこそテレワークと同義ではないだろうか。このようにテレワーク工場は次の目標となってきた。

3.11の後にBCPが普及したが、同じように、平時における備えとして、テレワーク計画(TWPTele-Work Planning)の作成が重要であるに違いない。中小企業では、デジタル技術を活用した業務自動化、テレワーク経営の実践が目前になってきた。

アナログファーストで、デジタル化を本気で取り組んでこなかったつけが、今、起こっている。野党が、早く配れというのであれば、その前に、デジタルファーストを言わなくてはならない。単なる竹槍精神では、武器なしにいくさに行けと言っているようなものである。

次に来る電子インボイス、これを竹槍で行なってはいけない。システム、つまり仕組みつくりが必要なのである。電子インボイスの実施によって、緊急時には、国が即日、買い取りをし、早く入金が可能になるようにすればよい。電子インボイスの意義が幅広く理解されるに違いない。 

数字はどこから

さて、今回提示されている数多くの数値は、どう測定されたものなのかという重大な振り返りも求められている。数値データを収集することは、IoTの基本であるが、発生時に一回、できれば自動的かつリアルタイムにデータを収集することが望ましいことは言うまでもない。

たとえば、東京都が陽性率を、初めて発表したという。つまりそれまで検査人数を正確には把握していなかったのである。国会であれだけ、日本の検査数が少ないと、野党から批判され続け、増やせと言われてきたにもかかわらず、正確でないデータで議論されてきたのである。

さらに、陽性率7.5%、これをどう読むかは、次の重要なテーマである。当然、検査数が多ければ率は低くなり、少なければ高くなる。低いことがよいのだろうか。高いことは悪いことなのだろうか。日本では、感染の疑いのある人を優先して検査してきたため、陽性率が高いことが推測される。しかし、これが医療崩壊を防ぎ、現場の効率につながってきたといわれている。

さらに、率の高低の問題以上に、それをどう読むか、どう意思決定に関係づけるのかという分析と意思決定のモデルが大事である。それがないのに、数値の増減だけで大騒ぎするのは、ワイドショーの安易なコメンテータレベルの誤解を導く。

感染者数に注目が集まっているが、4月中ころから金曜に多くなり、土日が少ないことが指摘されていた。休日前に検査が集中するのか、あるいは、検査してから結果がわかるのが数日とすると、結果を報告するのが金曜日に集中して、土日が少ないのかもしれない。つまり日ごとの感染者数とは、その日に感染した人数を測定したものではなく、その日に感染が確認された数であり、その数の増減が感染の最新状況を正しく表しているとは言えない。おそらく、週での移動平均、つまり週単位での平均の推移をみなければ、妥当な状況を把握できないであろう。

IoTでいえば、だれが、どのようにして、データを測定し、だれがそれを加工、変換して別の数値を作り、そして誰が何の目的で、評価するかについて確認しなければ、そこに数字があったとしても、実態の見える化など、できない。

万歩計を取ればわかりやすい。測定しているのは、歩数ではなく、加速度センサーの上下回数をカウントして歩数とし、歩幅から距離を計算し、体重、身長から消費カロリーを計算している。測定した元データと、それをもとに計算した数値を区別して考えなければならない。

さて、野球でよく用いられるスピードガン、テニスでも使われている。時速150kmというが、あれは何を測定しているのだろうか。速度を測っているように見えるが、速度はどのように測定できるのだろうか。知られているドップラー効果、つまり走っている列車からの汽笛が、自分に向かっているときと、離れているときでは、音が異なって聞こえる、この現象を応用して、スピードガンから発射された電波と反射した電波の波長を測り、ボールが短時間に移動した距離と時間を算定し、速度を計算しているのである。つまり測っているのは速度ではなく、波長である。

問題はその時間である。短時間とは、はたしてどういう時間なのか。時速とは、移動した距離を、かかった時間で割り算したものである。1時間とか1分とか1秒間に移動した距離を割ったものであるから、それは平均速度でしかない。しかし、車で走っているとき、知りたいのは過去の平均時速でなく、その時の速度である。つまりできるかぎり、今、どれだけ早く動いたか、を知りたいのであるが、その時間はゼロであってはいけない。ゼロを分母にしたら割り切れないからである。

そこで考案されたのが、「限りなくゼロに近い値」、という、架空の数値の概念である。これが、多くの学生が数学でつまずく微分、つまり微(かす)かに分ける、につながる。限りなく短い時間を想定してその時間に動いた距離として速度の理論化を図ったのである。

ニュートンは、リンゴが落ちているのを見て重力を発見したわけではない。当時の数学者は、この「限りなくゼロに近い値」にチャレンジした。言うところの法線、接線問題である。再度、IoTでは私たちは何を測っているのか、測ろうとしているのか、それをどう加工しているのか、を、確認しなければならない。

日本がこの新型コロナ禍にあって、感染者数、死亡者数が、世界の水準から2桁近く少ない数字であることに世界が驚き、奇跡だといっている。何がうまくいったからだ、という膨大な説明がこれから登場するであろう。

Washington-postは、social pressureと表現した。それをある放送局は「横並び意識」と訳した。かなり意訳ではあるが、海外からはそう見えているとことも一抹の真理かもしれない。社会のありように関わるとすると、自粛することは、他人に迷惑をかけない、特に、今回は、感染しているかどうかわからない人が多くいるなかで、感染することよりも感染させてはいけない、という意識も働いているのかもしれない。まさにマスクの効果はうつさないことにあるようだ。ここには、自分さえよれければいい、ではない意識、利他的行為を示しているように見える。 

身の丈テクノロジー

今、まさに、このコロナ禍によって、近代の枠組みが大きな疑念を持たれ始めているといってもよいだろう。思えば、社会の大きな変化は災害によってもたらされてきた、というのは歴史の真理かもしれない。遷都は、多くの場合、異常気象、災害、伝染病などによる社会的な不安を解消するための政策であったことが多い。

科学技術も新たな段階にきているかもしれない。14世紀のペストの蔓延によって、それまでの教会を中心とした体制、科学の刷新が求められ、近代社会、近代科学への移行が促されたという。当然ながら、数千万人の死亡を前にして、既成の教会権力が、ペストに無力であり、その権威が失墜したことは想像に難くない。

今の近代科学が限界にきているという指摘は多い。例えば、システムの巨大化、複雑化である。原子力発電所の事故に見るように、各コンポネントが複雑に絡み合い、全体を俯瞰できる重要な役割を担える人材は少ない。また、長期の運用になれば、担当者の異動、退職に伴い、その情報の継承が円滑にいくとは限らず、散逸することは避けられない。ひとたび事故が起これば、最後は一人の英知に頼らざるを得ず、巨大化がネックになってしまう。

原発に限らない。日常生活でも、たとえば、キャッシュレスの複雑さに多くの人がとまどっている。問題は、もはや技術の話ではない。ペイペイで支払おうとして、店舗のPOSレジのQRで読み取ることはたやすいが、残高がなくなれば、クレジットカードから自動的にチャージされ、数か月後に銀行から引き落とされる。その間に、複雑なシステムを経由しているに違いない。さらに、ポイントが付与され、5%ポイント還元なども含め、電子マネー、クレジットカード、ポイントと重層的に関係システムを横断する。ポイントの残額を調べるだけでも、結構手間であり、ポイントを使いたいと思っても、方法が複雑で、結局、期限切れになってしまうことも多い。その間、いわば100円の支払いであっても、この取引データは、世界中のネットワークを駆け巡る。

ある日、そのどこかで、情報の漏洩があっても、また、取引がエラーになったとしても、それがなぜ起こったのか、どこで起こったのか、その原因を探ることは、もはや個人の能力、知識をはるかに超える。しかも、個人がこれらの仕組みを利用する際に最も多く遭遇するのは、IDやパスワード忘れという極めて単純な問題である。複雑さが間違いなく個人の管理可能レベルを超えているからに違いない。

また、最近の住宅ではデジタル家電が増えてきた。デジタルとことさら言わなくてもテレビには、これまでの放送局のテレビ番組だけではなく、ケーブルテレビ、有料のネットテレビ、さらにパソコンのモニター、そして、録画予約など、かなり接続が複雑になり、障害が起こったとき、普通の人では解決不能になる。その際に、サービスセンターに電話やメールで状況を伝え、修理を依頼するが、その説明たるや、場合によっては何時間もかかってしまう。状況を的確に説明することすらできないのが、家庭内デジタル化の現状である。多くの人が、自分で管理可能な身の丈に合った技術を求めていることは間違いない。 

どこへ

近代化は、市民、さらに個人の権利を極大化し、個人の利益を優先することを目指した。いわば社会と個人とのデカップリング、すなわち切り離すことにかなり成功した。しいて言えば、そこに理論的な根拠を与えたのが、原因と結果を関係づけるのに寄与した近代科学の役割であったのかもしれない。しかし、社会とは、人と人の交流のことであり、自分さえよければではなく、人のために相互に何かをしあうことが社会の基本概念であり、デカプリングとはその意味では、明らかに矛盾する。

軒先を貸す程度の利他的行動は、自分には、何も害もなく、自己犠牲を強いることでもない。それでも嫌がるのはなぜか。私有、たとえば、領地を基礎に人と経済を支配する封建社会から、個人の土地所有によって、個人を基礎とする市民社会、資本主義の登場が、個人の利益を擁護し、最大化することを助長した。科学も技術も産業も、である。それが格差を生んだことも間違いない。

しかし、利益には、常に後ろめたさが付きまとう。なぜ、お前だけ儲けることができたのか、悪いことをしたのではないかと、その言い訳に、多くの学者が付き合ってきた。アダムスミスは、『諸国民の富』で、市民社会の到来、貿易からの利益、工業からの利益、を新しい社会の到来として、評価した。マックスウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、利益を再投資するという禁欲的な利益の使い方が、さらなる世界の成長に資するとして、経営者の利益を擁護した。

その時代の終焉はすでに、この50年来、言われつづけてきたが、それを、このコロナ禍が決定づけたとする意見もある。土地所有は、封建社会から近代国家に移る際の重要な資金源であったが、しかし、それが、今や国を縛っている。人と人は、私有ではなく信頼に基づいて再構成されるようになったからである。私有財産は信頼される社会的関係においてのみ略奪されることなく、安心して所有することが許されるからである。さらに、情報公開は、信頼の証しでもある。個人の利益ではなく社会の利益のために、情報を提供する。典型的な利他的行動である。

「軒先を貸す」という言葉は、そのあとに、「母屋を取られる」と続く。つまり一見、利他的な行為が、個人の利益、つまり所有されることへの懸念を表したフレーズである。しかし、今や、所有から使用への転換という、別の意味を付与してよいかもしれない。私たちが、真剣に脱近代を求めているからであろう。

2020年7月17日金曜日

県内ツアーキャンペーンはいいけど、

東京の練馬区に住み、蓼科の東急リゾートタウンに、リゾートマンションを昨年購入し、森の空気の良さを享受する別荘ライフを楽しんでおります。
しかし、今年の新型コロナウイルスの感染問題の影響で、県をまたいで蓼科に訪れることも憚れるような事態になり、公式にも、来てほしくないと、明言され、忸怩たる思いをしておりました。
6月19日の解除を待って、すぐに訪れ、この地の緑と、何より、空気のおいしさ、においに、改めて感動し、購入してよかったと、改めて、思い至りました。
しかしながら、観光キャンペーンが、例えば、北八ヶ岳ロープウエイの県民割引や、また長野県の「長野県ふっこう割~あなたの旅で、長野を元気に~」「ちの割」なども、長野県民限定、と明示されています。
ご存知のように、私たちのような別荘保有者には、市・県民税(家屋敷)が課税されています。sikasi,
課税に際しては県民に準拠、キャンペーンでは、県外扱い、というのは、身勝手な論理に見えます。

これからたくさん登場するであろう、観光キャンペンに、考慮されることを、願います。
ちなみに、ちの飲食店応援チケット「Yell Yell Yell(エール エール エール)」には、さっそく賛同し、購入申し込みをさせていただきました。

私たちも県民に準じた取り扱いをしていただけるご配慮をお願いします。

選挙の当選確実が早すぎ


今回の東京都知事選は現職有利といわれ、ただでさえ、投票に行こうかどうか、にぶりがちでした。しかし、いつもながら、投票締め切りの8時を過ぎると、すぐに当選確実が報道されます。それも開票率0.1%にもかかわらず、です。公式発表でなく、いわば予想なのですが、候補者にインタビューをし、万歳三唱もされます。
しかし、0.1%とは、私たちの投票がほとんど開かれていない時点です。たしかに、出口調査や事前の調査によって、統計的に確実なのでしょうが、国民としては納得がいきません。私たちが、投票に行っても行かなくても結果には影響がないのだという、選挙への無力感でいっぱいになります。
せめて、開票率50%程度になってから、当選確実を出すよう報道を自粛してほしいと思います。

2020年5月12日火曜日

新型コロナをめぐって

結局は、もぐらたたき、限られた資源をどう配置するかの話。どこかの数字を改善すれば別のところが悪化する、検査数を増やせば、別の要素がへこむ、昨日のおみさんの発言も、検査数を増やしても、感染者の数が「そんなに」増えないだろう、というもの、意思がスクリーニングして、陽性率が7%ということは、世界から見ても標準値だから、検査数を広げても、7%をうわまわることはない。だから、検査数をむやみに増やすより今、感染している患者に注力する方が、限られた資源を有効活用できると、述べたものです。その理屈は、政治屋にはわからんでしょうね。検査が遅れて急に悪化し、短期間で死に至った岡江さん1人の命よりも、10人100人命の方が大事、といい意味でした。でもこレを言うと炎上でしょうね。

2020年4月22日水曜日

新コロナウイルス、もっとデータで見よう

https://bit.ly/3cFLM0O

では、移動平均をとって、

緊急事態宣言1週間で新型コロナは頂点、減少へ


画像

 7日平均の赤線グラフがピークに達したのは宣言1週間後の15日であり、7日平均値「536」でした。19日にはこれが「487」まで下がりました。参考までに対応する曜日の棒グラフを細線で結んであり、減少の傾きが日々に大きくなってきました。

といってます。そういうと緩むことを心配してか、拡大拡大、と報道も言い続けています。
もっとデータを大事にしたいですね。
実は、IoTの観点からすると、データ収集、公開の方法がかなり怪しいのです。
16時半ころに、NHKなどが跫音東京都の感染者を流し始めるのですが、これが、東京都の職員いよれば、といい、Webでも、東京都は公開していないのです。
全国でも、報道機関が自分で収集し、集計しているといい、確かな情報源が明らかにされていないのです。
おそらく自動的な収集はありえないので、保健所から毛都道府県い報告し、それを厚労省に挙げるというのが正しそうなのですが、その気配なく、大臣も、政府の何人といって、其れの一喜一憂しています。おかしいですね。
もちろん、xx日xx現在と表記しています。リアルタイムなデータ収集ならわかりますが、保健所が毎時毎分報告するとは言えないので、バッチ処理でまとめて報告されているでしょう。
オープンでーあた、じゃないですよね。

2020年3月9日月曜日

かかりつけ医師は、果たして頼りになるのか

今回の件で、すぐに大病院に行かずにまずかかりつけ医院にいけ、という見解が厚労省からも出ます。抜けている話があります。かかりつけ医の改善です。能力、見識、人格、最新情報など、不足している近所の医院、特に内科医のばらつきがひどいです。頼りんならない医師が多すぎます。再教育が必要です。いい大学を修了した医師、大病院から、天下りの医師、患者を粗末に扱う医師、看護士をきちんと指導、統率できない医師、ひどいと思う医師が多すぎます。

2020年1月27日月曜日

金融EDIへの課題について、2019年度全銀ネット有識者会議議事録より

1.日 時   2020年1月10日(金)12:30 ~14:30
2.場 所 朝日生命大手町ビル 24階 サンスカイルームE会議室
3.議 題 (1)今後の全銀システムに求められる役割
              (2)全銀EDIシステムの利用に向けた取組み
     (3)まとめ
での発言【つなぐITコンソーシアム 松島金融連携EDI委員会委員長】

・今後目指されている請求書の電子化とあわせて、ZEDI活用の意義が小規模事業者にも伝わっていくと考えており、是非一緒にZEDIを育てていきたい。ZEDIは一社で利用できるものではなく、企業間の調整をいかに効果的に行っていくかが課題である。国際的にも優れていると言われている日本の企業間関係を活かし、企業グループ内の資金移動にZEDIを積極的に活用してほしい。またこれにより、グループ内の移動資金の透明性確保等につなげられると考える。
・中小企業とZEDIをつなぐサービスの提供会社が、銀行ごとに個別の契約や異なる接続方法が必要であれば、サービスを実現するのに大きな阻害となってしまう。速やかなZEDIの普及促進を実現するためには、S-ZEDIを活用したファイル転送から始めることで、銀行ごとの個別契約や接続方法の技術的検討が不要となり、短期なZEDI導入の可能となると考えている。
・EDI情報の利用促進においては、発注者と受注者双方に働きかけるというように、利害関係にある複数の企業を調整することが求められる。一方で、複数企業の調整を行うことが可能な団体や人材は必ずしも多くない。関係者には、この調整型支援を、各地の金融機関に、積極的に進めていけるようなサポートをいただければと思う。