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2021年9月14日火曜日

アフターコロナ、改革のなかの真実

 

 

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(方丈記)

 

あの時代もまた変化が激しかったに違いない。私たちはいつも、現代を激変と呼ぶ。技術の進歩、情報の氾濫、流行の移り変わり、どれをとっても変化の激しさを日々感じさせる。昔はもう少しのんびりしていたと懐かしむことも多い。

しかし、激変は現代に限らず、どの時代の人もそう感じたのかもしれない。歳を取るにしたがって、時間が早く過ぎ去っていくと感じるのも、自分の能力の衰えや、変化についていけないからに違いない。

私たちの子供の頃はビッグバンも大陸移動説なども教えられなかった。知識は変わりやすく、学ぶ意欲がなければ、すぐに時代に追いつけなくなり、古いといわれる。学ぶ意欲を持ち続けることが大事であることは、時代を超えて変わりない。腕のいい職人であっても、その技能を新しい環境に合わせて学ばなければ、その技能も間違いなく陳腐化し、伝統を守ることさえできない。伝統を守るということは、更新、さらにいえば、改革と同義なのかもしれない。

 

改革とはなんだ

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」では、日本資本主義の父とも呼ばれる主人公渋沢栄一が、幕府転覆という、まるでテロリストと見間違えるほどの過激な思想の持ち主であったことに驚かされる。思えば、吉田松陰でさえ、思想的にはテロリストを輩出する過激な思想家といってよく、その思想に忠実であった若者の多くが、若くして殺害され、明治維新という改革の夢を見ることはかなわなかった。

いつの時代も血気盛んな若者の、先頭に立って世の中を変えようとするエネルギーが改革の源泉なのかもしれない。同時にそれを利用しようと図る体制派や気まぐれな世論などが、社会的なムーブメントとなって初めて改革が実行されるのかもしれない。もちろん、桜田門外の変、五・一五事件、二・二六事件などのように、結果から見ても、若者の意欲がすべて正しかったとは言えないし、それが歴史を逆に回したことも事実であろう。

その後、開国に反対した幕末の志士たちが、渋沢栄一がそうであったように、現実主義として開国に転じ、明治維新後に政府の要職を務める。悲しいことに、若者が唱えた改革への野望は、最初にめざした形をとどめないほどに消費され、食い散らかされ、血を流し、初めて実を結ぶのかもしれない。

かつて1969年秋、自民党政府が倒れるのではないかという幻を、一瞬、見た気がする。しかし、倒れることなく、それを唱えた多くの若者は、現実に転じ、団塊の世代を構成し、現在なお、体制の主流をなしている。そして、あの時の過激なほど原理に忠実な若者の末路は悲惨であった。

いつの時代も改革を純粋に叫んでいる若者の末路に対して、煽った知識人、評論家、メディアはいつの間にか霧散する。それも、ひょっとすると、改革の真実なのだろうか。

その姿を2000年前後のITバブルにさえ見ることができる。ITベンチャーと、もてはやされて、起業し、失敗して離散、自らの命をたったものさえいるにも関わらず、ほとんどの煽った人たちは、何の手助けも出来なかった。私たちは、彼らの道筋を、もっとしっかりと支えるべきではなかったのか。

なぜ、改革は、初心を貫けないのだろうか、初心を貫いた若者の犠牲の上に現実に転じた勢力や、もともとの守旧派が主力となって、現実を変えていくというのはなぜだろうか。

 

改革はなぜ進まない

政府のコロナ対策としての協力金の支払いが、多くの申請を人が確認しているために、対処できず、遅々として進まないと聞く。国民に定額特別給付金を支給する際も、国と地方自治体が管理するデータの齟齬によって、多くの時間と手作業を必要とした。

地方自治体がワクチン接種を進めている間に、政府が集中センターを作り接種を加速する、という。政治的判断ではあるが、データの一元的な管理、とりわけ、誰がどこで接種したかの実績情報の迅速な把握はほぼ困難になるだろう。十分な議論なしに実施すれば、このようなことが起こるのは明らかである。強行なしには改革が前に進まないのも現実であるが、デジタル化を阻害する加害者は、このようなデータに関する基本的な理解不足なのかもしれない。

今や、改革の大合唱である。保守であるはずの自民党内閣でさえ、改革を唱えているほどである。それなのに、改革は一向に進んでいないと多くの人は嘆く。こんなに、国民の多くの賛同を得ているならば、改革が進んで当然ではないだろうか、民主主義の時代に、選挙で選ばれる議員も、例外なく、今のままでいいとは言わず、改革を唱える、その人たちが選ばれているにも関わらず、改革は進まないとすれば、何かおかしくないだろうか。

改革したいのか、本当は改革したくないのか、あるいは個人は改革好きだけれども、その集合体である組織や社会は改革を望んでいないのだろうか。経営環境、経済環境、技術革新など、すべてが、激変、変化が激しいと語られているのに、社会が変わらないというのは、なぜだろうか。

電車に乗っているとき、隣に来た電車が動いていれば、止まっているように感じるし、逆にこちらが止まっていれば後ろに動いているような錯覚に陥る。環境と一緒に変わっているのであれば、人の目には変わっていないようにも見える。変わっているけれども、変わっていないと思っているのは、錯覚なのかもしれない。社会も制度もとっくに変わっているのにも関わらず、改革を唱えるのは、自分が動かないので、周りの激変に遅れていると思い、焦っているのかもしれない。守旧の人ほど改革を口にする理由がそこにありそうだ。いまだに改革を邪魔している加害者の存在は見えてこない。みんな被害者を装っているかのようだ。

改革という響きに、自分は何かをしているかのような心地よさ、安心感、安ど感があるとするならば、いわば、改革を口にすることで改革の側にいることを装える自己満足感、自分の身の保全と安住を図っているとも思える。いわば改革という名の保守、まさに逆説的な帰結なのかもしれない。

 

DXは改革に値するのか

DXにおいても、メディアが持ち上げ、数年後に失敗したと捨て去る、といういつものプロセスが繰り返されるかもしれない。IMSSISBPRと、これまでもそういわれ続けてきた。しかし、私たちはメディアに振り回されるだけなのだろうか。言葉の流行が終わって何も残らなかった、とも言われるが、その中から確実に成果を作ってきたことも間違いない。

例えば、IMSでは、当時のコンピュータへの期待が強すぎてそれを処理できる能力が、まだ備わっていなかったと総括されることが多い。しかし、実際には汎用コンピュータの登場によって、磁気ディスクの技術をもとに、ファイル構造の改革、トランザクション処理、オンライン化への基礎固めを行うことによって、銀行オンライン、在庫を中心とした生産管理、新聞製作へのCTS化など、利用上のまれに見る大きな発展を遂げた。

SISにおいても、企業の経営戦略とIT戦略の整合性という課題に取り組みながら、商品戦略、販売戦略に情報を活用する大きな発展を遂げた。さらに、BPRでは、従来業務をそのままシステム化するのではなく、業務の根本的な見直しを提起し、大きな賛同と事例を作り出したことも事実である。

デジタルトランスフォーメーション、すなわちDXもまた、バズワードと批判されようが、そこには間違いなくコロナ禍での体験からデジタルで改革したいというニーズの最大公約数的な役割を果たしている。もはや、カイゼン、リエンジニアリング、リストラクチャイングとどう違うのかと問うことはほとんど意味がない。

IMSSISBPR3文字群は使い捨てられたかもしれないが、それを経由して、現実的な解を作り出し、着実に成果を作ってきたことも、一つの真実には違いない。DXも、数年後には忘れ去られるかもしれないが、進化をもたらすことは期待してよい。それがおそらくDXの真実となるはずであり、その意義を追求することを怠ってはいけない。最後に残るものに真実があるとして、さて、そのDXの真実とは何だろうか。

  

DXの後に残されるもの

今後、DXという言葉が霧散した後、何が成果として残るだろうか。すでにほとんどの企業や組織ではパソコンを導入しワープロ、表計算などのオフィスツールを活用し、インターネットにつないでメールやブラウザーによる情報交換、情報収集を実施するなど、実は、相当程度、日常生活、日常業務にデジタル技術は浸透している。それらの既存のデジタルの仕組み、さらにデジタルデータ間をつなぐことがDXの重要なテーマであるとされる。

もちろん、今でも業務上はつながっている。しかし、手作業によってである。オンライン申請であっても印刷してその内容を確認してクリックするのは、デジタル結合ではない。申請データをプログラムが自動チェックして、必要な時にだけ人の介入を要請する、それがデジタル結合である。

さて、デジタルトランスフォーメーションとは何を意味するのだろうか。字句通りに解釈すれば、フォーム、つまり形を、トランスフォーム、つまり変える、ことであるが、トランスには、さらに、ある状態から別の状態に移る、転じる、横切って、超越して、という意味が含まれている。

 また、トランスが付く用語にトランザクションがある。トランザクションは一般に取引と訳されることが多いが、tradedealとは異なり、外部との間で処理することを意味している。すなわちDXには、分散されている様々な組織、機能、データをデジタルでつなぐことが期待されているとも思える。

 企業活動を要約すれば、外部から調達して、付加価値をつけて外部に販売する、つまり、ビジネスとは、外部からトランザクションに始まり、外部へのトランザクションに終わるといってよい。A社のアウトプットはB社のインプットであり、A社から部品が発注されれば、そのデータはB社に注文データとして伝送され、在庫を検索し、なければ製造手配をして、工場の製造日程などを勘案した納期回答をA社に送る。これらの一連の流れに、少なくても人が関与する必要はない。これまで、社内の業務効率化が追求されてきたが、最も無駄が多いのは、このような企業間でのやり取りである。

私たちは、1990年代末のERPの登場の意義をいまだに理解していないのかもしれない。その最大の意義は、アナログ的な業務処理を、デジタルを主体とする業務の流れへと変えることにあった。外部からのデータ、すなわちトランザクションを受け取ると、標準的アプリケーションプログラムが直接、統合データベースを更新するというデジタルならではの方法を取り入れたことである。

従来の実務は紙ベース、伝票が発生するとそれを記帳し、日計表、仕訳帳、勘定元帳を経て貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書などの財務レポート、さらに原価明細書を作成する。しかし、これらは転記という簿記会計がベースになっている。転記することは、確認しながら間違いなく集計できるようにという業務の知恵でもあったが、この流れに沿ってシステム化することは、締めを待たないとレポートが作成できないという時間遅れの問題を内包している。

ERPでは、ネットから注文を受けると在庫データを引き当てて更新し、また、製造や外注手配をすると同時に生産計画データを更新し、生産が完了すると、納入の手配をして、配送業者に集荷依頼が送られる。納入が完了し、検収が済むと、棚卸在庫は売掛金に移され、損益計算書の売上高と売上原価が計上される。同時に発注企業では、固定資産と買掛金が計上される。転記でなく同時更新である。

これによって、月次、日次、リアルタイム決算が可能になる。そこからさまざまな報告書作成や分析が行われ、詳細なデータが必要な時はドリルダウンによって、トランザクションデータに遡ることができる。つまり、従来のアナログ的業務フローのデジタル化ではなく、デジタルを主体とする業務の流れへと変えること、これがデジタル改革である。

中小企業の生産性が低いといわれて久しい。しかし企業内よりも、企業間での無駄な業務のやりとりが、中小企業にしわ寄せされているのであって、企業間業務がもっとつながれば、業務処理の迅速化、中小企業のみならず、サプライチェーン、さらに日本全体の大きな生産性向上につながる。

つながるデジタル化の基本原則、それは企業間での業務の自動化、データの同時更新、リアルタイムトランザクション処理にある。IFRS、(国際会計報告基準)に準拠すれば、企業間での業務の同期、とりわけ会計処理の同期、すなわち相互運用性である。例えば、発注処理は受注側での販売受注管理にデータ連動し、出荷処理は配送業者の集荷業務に連動する。売上計上の認識は、企業間での資産の同時移転、債権債務の同時更新にある。このような相互運用性の確保こそDX、いわばデジタル化の本旨である。

当然ながら、企業間の取引は契約に基づき、取引の実在性が客観的に担保され、accountabilityauditabilityが確保されなければならない。すなわち、ある資産がどちらの企業にも計上されない期間があってはならない。

企業間のEDIが進まないとされる。B2Cと同じようにB2B においてEコマースのようなプラットフォームの登場が待たれる。その基本は発注企業ではなく、受注企業の視点である。キャッチボールのようにキャッチャーが受け取りやすいボールを投げる責任が発注企業にある。両社が実務のリポジトリーを作成して、AIが判断して、自動マッピング、自動転送を行う時代がそう遠くない。APIを介して発注・受注企業の各システムがデカップリング(分離)され、作業分担や費用負担の調整が最小限になる。これもDXである。

 

結局、改革とは

 

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(平家物語)。

 

輝かしく巨大なビジネスを達成しても急速に衰退する企業もあれば、小規模でも輝き続ける100年企業もある。経営戦略は多様で正解はない。

今、ネットを武器とする米国の巨大な企業が世界を席巻し、称賛と同時に脅威を与えている。国境や商習慣を乗り超え、さらなる投資を呼び込み、地球全体を飲みこむ勢いでもある。

かつて、大型スーパーが地元商店街を駆逐し、コンビニが流通市場を制覇するといわれた。しかし、実際には、各地で、各業態の特徴を生かした多様な店舗が競合している。どんなにグローバルな市場であっても決めるのはローカルにいる個人である。ネットで注文するのは便利ではあるが、時には店に行って商品に触れ、買い回るのを楽しみ、AIが商品を勧めることを余計なお世話だと感じることもある。ある時はみんなと同じものを好み、ある時はみんなと違ったものを買う気まぐれな人たちが消費者である。ひとつの業態、ひとつのサービスですべての顧客のニーズを満たせると考えるのは供給者のおごりでしかない。

成長している企業の経営戦略は右肩上がりの時には有効であっても、成長が止まった瞬間、ネットの時代ほど急速に下降に転じる。地域や個人に必要とされなければ、成長どころか存続さえも許されないことを優れた経営者は気付いている。戦略とは業務改革を包む単なる熨斗紙でしかない。成功が約束される戦略などあろうはずもない。

信長は天下一統を前に、自分の手でその野望を実現することはできなかった。改革を目指したものは、その野望を自分の目で見ることができないというのが歴史の真実なのかもしれない。

改革という言葉だけに浮かれている人たちも久しからず、今見ているドラマが、こう言っている。まず一歩踏み込む勇気が必要だ。その大きな要因として、デジタル、そしてテクノロジーに期待している。それがDXの真実となることを。