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2019年9月13日金曜日

文学化する企業経営


私たちは、しばしば、ソフトウェアは目に見えないから価値がわからないと言われてきた。たしかに機械のように形があるものは、そこにたしかにあるし、目に見えて動きもわかり、その価値も理解しやすい。それに対してソフトウェアの実体は何かと問われても、プログラム、でもそれは、テキスト文であって、それでどう動き、どう機能するかはわかりにくい。要は、目に見えないことは間違いない。しかしでは、目に見えるものは全てわかりやすいのか。あるいは、目に見えるものはすべてが真実なのか、それを疑わせる現象は、最近、そこかしこに見受けられる。

ブラックホールを初めて撮影したという。よくよく見れば、ブラックホールそのものではなく、その周囲の光のリングの中心部に「影」と呼ばれる暗い部分が見えた、つまり周囲の光を撮影したのであってブラックホールが見えたわけではない。しかしこの報道が世界を驚かせたのも事実である。いわば、見えないものに驚嘆したのである。私たちが見えないものを信じないといっているのも、またフィクション、いわば仮想の世界、文学のなかの出来事かもしれない。それこそ、これがブラックホールだというのは、説明員がいい加減な人ではないから信じているといっているのかもしれない。

信じている人が話しているから信じられる、トランプを信じる人は彼が話すことはすべて真実だと思っているし、どんなに報道機関がフェイクだといっても、投票行動に仕向けることに成功している。真実を知りたいのではなく、好きな人が語る心地よい情報、自分を行動に駆り立てる情報が真実なのだと思っている。

ある音楽事務所がテレビ局に、独立したタレントを番組に出演させないよう圧力をかけていた疑いがあることが分かったとして、公正取引委員会は独占禁止法違反のおそれがあるとして、音楽事務所を注意したという。疑いとは、これが事実であるといっているのか、事実でないかもしれないということなのか。職場で上司が、女性が嫌がる発言をしたらまちがいなくセクハラであるし、ある大学での学位審査の場で、お前なんかに絶対に学位はやらない、と言ったらアカハラである。しかし、その事実は、電話をかけて脅迫したら、その音声がない限り、加害者は認めないだろうし、対面でもどちらかが否定すれば、事実はやぶの中である。被害を装うこともある。誰が嘘をついているかを明らかにするのもまた難しい。では、確認できないことはすべて事実でないのだろうか。

あるタレントが、事務所の意向に反して謝罪の記者会見を行い、数日後、事務所の代表が処分を撤回する旨の記者会見を行った。ドラマの結末はタレントに有利になったと思える。事実がどうかよりも、脚本と演じる役者の巧拙が事実を創り上げているように見える。

日産とルノーがメディアを通じて意見や主張を公表し、両社の違いが最初から明らかにされた。これは奇妙に思える。確かに、話題性はあるが、何も、公衆の面前でけんかすることもあるまい。両社で協議し、その結果を公表すればよく、協議もなされないのに、両社があたかも対立しているかのような印象を与えている。それは果たして信じるに足る事実なのだろうか。対立を煽ることで利益を得る人がいるということなのだろうか。

現代は、このような「いさかい」を解決するための双方をつなぐ人材の不足、あるいは調整する個人へのインセンティブが不足しているのかもしれない。また調整するよりも、メディアを通じてドラマの主役や被害者を装うことが交渉上、有利だと考えているのだろうか。「いさかい」が起こると、今は、すぐに法律専門家が登場し、法的に正当だと言い立てる。おそらくは、訴訟リスクを減らすことが優先されるからに違いない。しかし、問題はそこにはないことが多い。自分たちの主張を明らかにするというよりも、自分の気持ちを理解してほしかったという、いわく感情のもつれである。法廷で真実が知りたい、謝ってほしいと、しばしば被害者とその家族が述べるが、法廷とはそのような場ではなく、加害者の量刑を決める場所である。法理論的に問題が判断されることと、問題が根本的に解決されることとは、まったく違う。

振り込め詐欺、あるいは、オレオレ詐欺において、ほとんどの人は、子供の声を間違えるはずはない、あんな馬鹿げたトリックに自分は騙されないと、思っている。しかし、トリックアートに騙されるように、人間は必ずしも合理的に行動するとは限らない。すべては、言葉だけではなく、演劇や小説のような文学の世界で、まさしく、自分は加害者の家族という悲劇の役を舞台に立って演じている。

「言語にとって美とは何か」(吉本隆明)、文学の中心に言語的空間における美の創造があるとして、そこでは、かつて、戦後文学が政治的主張を述べる場となったしまった、いわゆる戦後文学論争を思い起こす。「政治のその目的の達成を前にして、・・・99匹のために、・・・その善意を動かさん、・・・見失われたる1匹の行方をたずねて、・・自らのうちに所有するものが文学者の名にあたいするのである」(福田恆存)、まさに、99人の救済を目的とする政治に対して、捨象された1人にこだわるのが文学の使命であり、1人の生死を問題にするのが文学の価値だと述べる。いわば多数決や、最大多数の幸福という論理は、国家の限られた資源をどう投入するかという選択であるとともに、まさしく、投票行動によって、何を切り捨てるのかを、政治が選択するという冷徹な合理性を持っている。

政治は大多数の幸福を目指して、多少の犠牲や捨象される人が出ることが避けられないという冷淡さを持ち合わせているが、もはや政治も厳粛な合理性を追求しているとは思えない現象が増加している。湾岸戦争の「油にまみれた水鳥」の映像である。石油が湾岸に漏れ出し、そこに鳥が一羽、全身石油まみれの真っ黒な姿で弱々しく立っているのを写し出すことで、世界中がフセインを、極悪人としてイメージづけるのに成功した。すでに文学が始まっている。目に見えないものは信じないというが、目に見えるものが真実であるとは限らないし、見たのはテレビに映された映像であって、自分の目で実際に見たわけでもない。

年金問題での、「消えた年金、最後の1人まで探す」、と大臣が言っても、全ての人を救済することなど、不可能であるあることは誰もが知っている。なぜそれを明言するのか、もはや政治が厳粛な合理性追求の場ではなく、文学化されたドラマを演じること、すなわちパフォーマンスが政治家の生き残りに欠かせないからであろう。かつて松本清張の小説が、戦後政治の裏を描いて読者を魅了したのは、それが真実らしいからであって、厳密に事実を確認することを大衆が求めていたわけではない。

文学化と呼べる現象が、政治だけでなく、経済や企業経営でもくり広げられている。DIDiffusion Index)、すなわち景況感という指標がある。景気への期待が投資を呼び起こし、景気の浮揚につながると考える経済理論をもとにしている。しかし、その期待自体は客観的でも、合理的でもない。主観である。中央銀行はフォワードガイダンス、すなわち政策の見通しを語ることで、期待値を誘導しようとしている。経済見通しには、「拡大基調」、「徐々に上昇」、「下振れリスクが大きい」、「ちゅうちょなく政策対応する」などと、文学的な修辞の言葉が遊んでいる。

多くの学問では、一つの結果が生じるためのいくつかの要因を抽出し、その中の一番、影響を与える要因との因果関係が、統計上、有意かどうかが検討される。たしかに、合理的に思えるが、それはあくまで確率の議論であって、必ずそうなるわけではない。確率は、そうならなかったときに、残りの確率で発生するわけではなく、同じような確率で発生する。であれば地震の発生確率は、一度起こった際に、次もまた、同じ発生確率で生じる。それは私たちの感覚とあっているのだろうか。一つの原因によって、次の動きが起こり、次々と引き継がれ最終的な結果を生じる。それは、「からくり」のように見える。このメカニズムこそ、合理的な自動化機械である。この発想を、科学に拡張したものが因果関係による合理性といえる。その最大の成果の一つがコンピュータであることは間違いない。

1960年代に登場した汎用コンピュータ技術の発展は、計算処理の高速化、大容量化による、数学の手法の開発と応用の場を提供してきた。行列演算、マトリックス、統計手法、そこでは繰り返し演算と総当たりのシミュレーションを行って最適解を求めようとした。それらが意思決定に役立つと長い間信じられてきた。しかし、経営者の多くは最適な意思決定よりも迅速に意思決定してその結果をレビューして、意思決定を見直す方が好まれている。では、数値による意思決定の最適化支援とは何だったのだろうか。

多くの経営者、実務家は知っている。どんなに精緻な意思決定を行っても、あるいは戦略を策定しても、自動的に効果が生まれるわけではない。結局実施するのは、人であり、社員がやらされ感覚で実施する施策が成功するはずはない。あるリゾートホテルの経営者は世界の優秀な経営者に選ばれるほど、新しい経営モデルによる事業拡大が称賛されている。しかし、現場のスタッフは、マニュアル重視のオペレーションが見え隠れする。

IT投資マネジメントもかつて、収益性、採算性を評価する意思決定のための手法であった。たしかに、投資金額と内容から収益性、経済性を評価し、回収期間、現在価値などを評価基準として意思決定することが合理的に見える。しかし、それらは所詮、投資金額と利益額の比率である。それが成功するかしないかは投資金額だけではない。しいて言えば、投資対象のプロジェクトの内容でもない。結局は、利用者がうまく使い、会社に利益をもたらす使い方をしてくれること、eコマースであれば、顧客との接点、要は買ってくれるかどうかに尽きる。

担当者が作成した情報システム化の提案が、上にあがっていくにつれて、金額や工数が削減され、提案資料は頻繁に書き換えられる。元の姿がほとんどなくなり、本来の趣旨が変わってしまうことはしばしばある。新製品開発でも同じようなことが起こる。その時、意思決定がなされても、担当者は自分の案だとは思えなくなり、当然、元の熱意、やる気が失せてくる。正しい意思決定がなされれば、それこそ機械的に、投資案の効果、結果が生み出されるなどと信じるほど楽観的な人はいない。意思決定は、プロジェクトのスタートであって、終わりではない。その際に重要なのが、開発者と、利用者の合意形成であることは言うまでもない。投資と効果に客観的な因果関係はない。その追求よりも、効果を出したいという現場の熱意が、最大の成功要因である。やる気をそいだ意思決定が成功するはずもない。もはや、意思決定手法や、その正しさではなく、どう実践するかの方法論がはるかに重要である。

モチベーションをどう高めるか、人材の育成は、いま最も重要な企業戦略の一つである。すぐれた人材を採用し、その人を引きつけ、辞めさせないことが基本である。そのためには、会社が給与を上げるだけでもなく、会社がその社員を大事に思っていることを示すことである。あたかも、会社が策定した戦略という脚本に、自分が主役を担っていると、思ってもらうこと、自分に期待された役割をうまく演じてもらうことであるといいかえてもよい。これは合理性ではなく、文学の領域にさえ見える。

トーマスクーンがパラダイム論で述べるごとく、真実は一つではなく集団的、社会的に構成されうるものであり、唯一の真実追及に、資源を投じるよりも、役立つものこそ真実であるとの割り切りが、よい結果をもたらす。21世紀に広がっている実践的思想、プラグマティズムによれば、行動に駆り立てることができる思想こそ真実かもしれない。

朝ドラをルーチンとしてみている人は、朝、元気に家を出たいために、見ているかもしれない。行動に駆り立てること、楽しくさせてくれる情報、あるいは自分が悲劇の女王であり、また、悲劇を見て悲しむ「よい人間」であるとする思い込みを得たいのかもしれない。
 
社会とは人間と人間との交流の場であり、市場はそのプラットフォームの上に成り立っている。すなわち経済がそれだけで機能することはなく、人の行動を支えることに市場の意義もある。それはロボットが人の仕事を奪うか、という問いにも当てはまる。人がおらずロボットだけの社会が果たして何を創造するのかを想像できないように、人の気持ちを無視した経済や市場機能を創造することはできない。

池井戸潤の「下町ロケット」、「半沢直樹シリーズ」のような企業小説が人気である。政治のみならず、経営もまた小説の題材として、好まれるようになってきた。それは文学に経営が入り込んだと同時に、経営の文学化、つまり。経営に文学的な要素が混入してきたとも言える。これまでにないような荒唐無稽な発想、それは言い換えると創造性あるいはイノベーションの源泉、大道具、小道具、舞台装置の準備、それはマーケティング戦略を実現するための仕掛け、観客に向かって述べるセリフは、顧客との対話の「真実の瞬間」である。経営とは、文学のごとく非現実な妄想をあたかも現実にあるがごとく精緻化する試みに思える。経営とは、まるで脚本つくりや演じるドラマと同じで、顧客をいかに魅了して、入場料を支払ってくれるかの文学的営為に見える。