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2009年3月16日月曜日

隈 正雄さんの「SEのための「経験則的」要件定義の極意 」を読んで

特徴的な主張にあふれている。これまでの研究がシステム開発手法や経営・経済からのアプローチで、業務のシステム化には役立ちにくい、と述べる。当然ながら、経営情報学とは経営と情報の学際的な領域であるため、それ自体の意義が問われるのは当然である。そこに空白があると主張するこの本は、まさしく経営情報学とは何かを、問い直そうとしているように読める。 
それを難しい議論ではなく、あくまで現場からのメッセージ、ノウハウ集にみせているところがこの本の大きな価値であろう。
しかし、批判の観点を2つ示しておきたい。第1に、中核としての経営情報学が存在
するとして、それは”そのもの自体は不可知”なのかもしれないことである。いつまでも追い求めるメーテルリンクの青い鳥のように、あるいは、玉ねぎのように、かわをむいてもまたかわがあり、いつまでたっても、中身に到達しえない類の問題なのかもしれない。1の半分は1/2で、その半分は1/4、その半分は1/8というような無限に極小に近づくことはあってもゼロにならないもどかしさを、常に感じながら、隈さんの英意も続くのかもしれない。
第2に、ではそのものは、そのもの自体として追及可能かという疑問である。他との関係からそのものの存在が明らかになるように、いわば、月が太陽のおかげで存在をわれわれに知らしめることが可能であるように、。他の学問領域との関係でしか、経営情報学も語りえないのかもしれない。その意味では、隈さんが不十分と批判した経営学、生産管理、システム開発手法も、経営情報学を語るためのツールにはなっているのではないだろうか。
隈さんが指摘する空白がどのように埋められるかが、まさしく、経営情報学の本質であり、ここにおける隈さんのこの本でのチャレンジこそ、経営情報学における最大の価値であるといえるだろう。

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか

『プロジェクトマネジメント学会誌』Vol.8, No.1(20060215) p. 1 を修正加筆

学会誌,とりわけ理論と実務に融合を目指した学会誌の評判が近年芳しくない.実務者からは,重箱の隅をつつくような研究ばかりで実務に役立たない,論文を提出しても参考文献の表記方法が厳しすぎる,と言う声も多く聞かれる.逆に学界からは,実務者は不勉強だ,研究とはいつか役に立つ可能性があるものだ,と言いたげだ.
しかし,学界の今の主流が実証研究にあることは間違いない.あらためて言うまでもなく,実証研究とは,理論モデルや経験的な事実から得られる仮説をデータによって立証する方法論であり,米国では,実証研究でなければ査読にとおらないとさえ言われる.
それならば,実務に対する知見に満ちていて当然ではないだろうか.役に立たない,すなわち有効性に乏しいというのは,なぜなのか.もちろん,論文査読において,結論から逆に導きだされたかのような恣意的で,根拠のない強引な仮説設定や安易なデータ収集を見出すことがある.実証研究のおかげで,大企業には1年に数百ものアンケートが舞い込み,“適当”に回答しているという.そのような研究をもとにして現実が正しく把握できるだろうか.このような実証研究は,現実に働きかけていないという意味で、実務に対して有効性がないのも当然であろう.しかしながら,その原因を研究者の姿勢だけに負わせるのは不充分のように思える.
研究者,とりわけ大学教員になぜ学会誌に投稿するか,と問えば,ほとんどの人が業績のためと答えるだろう.最近,特に業績評価が問われるようになり,学会誌の掲載本数がその物証になっているのは事実である.昇任や教員採択さらに文科省による教員審査でさえも本数が条件であるといってよい.しかし,2本の論文は1本の2倍の業績価値なのだろうか. 
このように考えれば,学会誌への投稿は,読者に向かって議論を巻き起こすためではなく,個人の業績計上が目的なのであり、日本の研究制度もそれを助長しているといえる.つまり,実務家と真摯に議論しようという動機はきわめて希薄であって当然である.
近年の専門の細分化に伴って,論文の主張の正しさを,査読において検証することはほとんど困難になっている.たかだか,基本的な表記上の不整合や論理的な誤り,論旨展開の矛盾,などがないことを確認しているに過ぎない. 
しかしながら,研究制度上は,“格の高い”学会誌で正しさが検証された論文が何本掲載されたかが業績評価なのだと考えられている.それは,まだ,市場から有効性を評価されたわけではないにもかかわらずである.このような場合,正しいか,有効性があるかどうかは,読者,つまり市場に委ねる方が妥当のように思える. 
そこにこそ,実務家と学界とが融合している意味があるように思える.掲載された論文を現場の眼で検証したり,実務に応用したりすることこそ,最良の有効性の検証方法ではないだろうか. 
クーンは,パラダイムの提唱にあたって,あるパラダイムを,同じ研究グループが検証し発展させるノーマルサイエンスの意義を強調した.そこで重要な役割を果たしたのは,志しを同じくする研究者同士の切磋琢磨と批判の場,真理に対して真摯に議論する場,コミュニケーションの場であり,それこそ,学会の本来の役割であり学会誌であったことはいうまでもない.その原点に今,立ち返ることこそ,有効性を取り戻すことにつながるのではないだろうか.

2009年3月9日月曜日

萌沢呂美さんの詩集「空のなかの野原」

機会があって、萌沢さんの「空のなかの野原」を読ませてもらった。
かつて、私たちの言語空間は、啄木であり、賢治、中也、朔太郎、そして志郎康だった。”汚れちまった悲しみに”に代表される、言葉と韻律は、悲しみや怒り、の表現の道具そのものだった。そして、言葉を磨くこととは、刃物を磨くように、読み手に突き刺さることを願って、研ぎ澄ますことに全精力を費やしていた。さらに、あるときは敵を倒すための道具としての言葉だった。そこで、書き手と読み手で共有していたのは、悲壮感、いいかえると、実は”ふしあわせ感”だったのかもしれない。あたかも、言葉は、死に急ぐ旅路への護身用具という矛盾に満ちた道具だったかもしれない。萌沢さんの詩集は、言葉はそんなためにあるのではないと諭してくれる。ふしあわせぶるために言葉はあるのではない、もっと身近で自分のためになる言葉のありようがあるはずだと言っているかのようだ。
花、コーヒー、空、桜、窓、光、雲、海、そんな言葉から書き出されている。たのしそうな、それこそ、しあわせさを表現し、こころを癒してくれるような思いにとらわれる。しかし、読み進むうちに、たとえば、花は爆発し枯れ、コーヒーカップの中はしぶきであふれ、光はきえ、ビルには墓石が並ぶ、、という終末を迎える。それが現実である保証はない。萌沢さんが、しわわせかどうかはわからないが、しかし、日常のなかの不条理、日常のなかの裂け目、を凝視し、無常感を潜ませていることは間違いない。梶井基次郎は、桜の樹の下には屍体が埋まっているといったが、萌沢さんもまた、みてはならないものを見ようとする誘惑にかられているに違いない。花鳥風月のようにみえる景色が、萌沢さんの世界では、妖しくたなびいているようにさえ見える。
萌沢さんは、私たちの言葉は、”ぶっている”だけで、本当は、秘すれば花、のように、何気なく時限爆弾を潜ませる道具なのだといっているように見える。”ふしあわせぶる”のではなく、”しあわせぶる”なかにこそ、言葉の価値があることを、さりげなく、教えてくれるようだ。