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2009年3月9日月曜日

萌沢呂美さんの詩集「空のなかの野原」

機会があって、萌沢さんの「空のなかの野原」を読ませてもらった。
かつて、私たちの言語空間は、啄木であり、賢治、中也、朔太郎、そして志郎康だった。”汚れちまった悲しみに”に代表される、言葉と韻律は、悲しみや怒り、の表現の道具そのものだった。そして、言葉を磨くこととは、刃物を磨くように、読み手に突き刺さることを願って、研ぎ澄ますことに全精力を費やしていた。さらに、あるときは敵を倒すための道具としての言葉だった。そこで、書き手と読み手で共有していたのは、悲壮感、いいかえると、実は”ふしあわせ感”だったのかもしれない。あたかも、言葉は、死に急ぐ旅路への護身用具という矛盾に満ちた道具だったかもしれない。萌沢さんの詩集は、言葉はそんなためにあるのではないと諭してくれる。ふしあわせぶるために言葉はあるのではない、もっと身近で自分のためになる言葉のありようがあるはずだと言っているかのようだ。
花、コーヒー、空、桜、窓、光、雲、海、そんな言葉から書き出されている。たのしそうな、それこそ、しあわせさを表現し、こころを癒してくれるような思いにとらわれる。しかし、読み進むうちに、たとえば、花は爆発し枯れ、コーヒーカップの中はしぶきであふれ、光はきえ、ビルには墓石が並ぶ、、という終末を迎える。それが現実である保証はない。萌沢さんが、しわわせかどうかはわからないが、しかし、日常のなかの不条理、日常のなかの裂け目、を凝視し、無常感を潜ませていることは間違いない。梶井基次郎は、桜の樹の下には屍体が埋まっているといったが、萌沢さんもまた、みてはならないものを見ようとする誘惑にかられているに違いない。花鳥風月のようにみえる景色が、萌沢さんの世界では、妖しくたなびいているようにさえ見える。
萌沢さんは、私たちの言葉は、”ぶっている”だけで、本当は、秘すれば花、のように、何気なく時限爆弾を潜ませる道具なのだといっているように見える。”ふしあわせぶる”のではなく、”しあわせぶる”なかにこそ、言葉の価値があることを、さりげなく、教えてくれるようだ。


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