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2010年1月15日金曜日

スパコンと事業仕分け

 日経ビジネス12月21-28合併号直言極限「スパコンは無意味」を読んだ。事業仕分け、とりわけスパコンを巡っての様々な議論がなされたがやっと、IT専門家の、いわ ばまともな意見を初めて聞いた思いがした。 
 松本氏は、こう述べる。世界一というのは感情論であるばかりでなく、その指標自体が無意味になっている。高速なハードの開発よりも、製品を早く開発できるソフトツールのほうが、明らか に価値が高くなっている。 
考えてみれば当然のことだが、高速処理能力のハードが必要だということと、科学技術への投資が必要だということと、スパコン開発に税金を投入するということとはまったく同義ではない。 
すでに主戦場はハードからソフト、そしてクラウドに代表されるサービスに移っているときに、高速処理のためのハードを開発することの意義は、少なくてもIT産業にはまったくないというの は常識である。 スパコンが言い出され、開発に着手してからすでに20年たつ。
その間、少なくとも、ハードウェアの世界で、Unix機を米国メーカーからOEM販売するというように、日本か らすぐれた製品を輩出したという話は聞いたことがない。 かつてもスパコンに、投資するよりももっと、優先順位の高い重要な開発プロジェクトがあったはずだ。 
ノーベル賞学者を並べた政治的なセレモニーにもうんざりした。復活という動きもあるようだが、優先順位を決める科学技術会議での議論も公開されるべきではないか。  

2009年6月11日木曜日

言葉と文字について(1)

私たちは、何気なく言葉を話し、書くときに文字を使う。話しているのを書きとめるのが文字だと思っているし、伝達するための文書も、文字で書かれるのを基本としている。たしかに、話すため言葉と書くための文字は表裏一体に思える。つまり、書き言葉と話し言葉というけれども、それはきわめて近い道具だと思っている。
しかし、考えればすぐわかるように、アフリカの国には母国語という言葉を使って話はするが、文字をほとんど使わない国や人種は数多くある。また、歴史的にも文字を自分で作り上げる人種はほとんどいない。どこかから移転されたのがほとんどである。ことばをつかって話すことは、移転なのか、自然発生なのかを検証することはほとんど困難である。経緯が残されていないからである。しかし、文字がどう伝わったかはかなり検証できる。文書が残っているからである。
これだけ、みても、言葉を話す、ということと、文字を書くということの間には、大きな隔たりがあるように感じざるをえない。

2009年5月31日日曜日

「断らない力」もあるはずだ(6)完

勝間さんがいう「断る」は、単に断るのではなく、流れにそうだけではなくて、もっと自己主張をすべきということを啓蒙しているのだし、私が、「断らない」というのも、安易に受け入れればいいというのでもないという意味で、勝間さんと私の位置はそんなに遠くないのかもしれない。
もちろん、断るかどうかは、能力の問題という以前に、仕事の需給状況に依存する。仕事がなければできる限り断らないであろうし、仕事が手いっぱいであれば、断りたくなるのは当然である。
基本的に、多くの仕事をしようとしても、資源には限りがあるので、優先順位をつけて、価値の高い仕事に集中するというのは業務やビジネス遂行の基本であるといってもよい。
しかし、この議論には2つの点が重要である。
第1に、資源は有限ではあるが、人の能力と生産性には大きな相違がある。仕事をうけても、それをタスクに分解し、優先順位をつけ、過剰品質にならず、不要な仕事を排除するのは当然として、さらに、本人がノウハウや情報が不足していれば、他に人に依頼することは通常のことである。その際に交渉する能力の有無が生産性に大きくかかわっているというのも常識である。つまり、自分の能力以上の仕事を実施できるかどうかも、またその人の能力である。
第2に不確実性をヘッジしておくことが不可欠である。その仕事が、今日、価値のないとおもっても、あすには、価値を持つこともあるしその逆もありうる。とすれば、簡単に断るのではなく、受け取るか、保留にしておいて状況を見ながら最終判断するというのもきわめて重要である。日本のビジネスピープルには「やりすごし」の能力が備わっているといった人材管理の研究者がいる。つまり、依頼者が本気で依頼する時もあるし、大した気持もなく依頼する時もあるのでしばらくやり過ごせる能力が業務遂行上きわめて重要だと主張している。であれば、断らずに、とりあえず受け取っておき、依頼者の顔色を見ながら最終判断をするというのも、賢い手段であろう。完璧な資料を作るのではなく、不十分な報告書をあえて出して、依頼者の本気度を探るというのも、現場でしばしば見かける処世術である。
まさしく、断るということにこだわらなくても、また、断われないから受け取るのではなくあえて、断らないことで、自分の能力を誇示し、能力向上の機会を探るというのは、まさしくありうることなのである。

昔、ある野球選手がこういっていた。ベンチからセンターの選手に、「前にでろ」、という指示があったら前にでて、また「後ろにさがれ」、とわれたら、とりあえず後ろに下がり、でも、結局、自分が正しいという位置に移動して守るんだと。最後は、結局、自分の仕事なんだからと。

2009年5月22日金曜日

「断らない力」もあるはずだ(5)

さて、断れないのは、主張がないことを意味しているという。 ほんとうにそうだろうか。
日本人が、自己主張をしないことは一般によく言われる。ノーといえない日本人、あいまいな日本人の背景に、あまり自分の意見をいわないことも、日本人のよくない点とされる。
たしかに、国際的な会議でも発言は少ないし、欧米人や中国人が、口にあわを飛ばしながらよくしゃべるのに対して、日本人は沈黙をむねとしているともみられている。
しかし、主張をすることはそんなに価値があることなのか、価値が高いことなのだろうか。2つの点で疑義がある。第1に、根拠があいまいにもかかわらず、主張するのは偽装ではないだろうか。いいかえれば、無知にもかかわらず、本人が理解していないだけなのに、自己主張を強調することはあまりにもピエロにしかみえない。
ある高名な学者が強く主張している時に、その根拠をたずねたら一言、日本人は単一民族だからと、いわれ唖然としてしまったことがある。彼は単に地位を利用していいかげんな主張していただけである。合理的で妥当な根拠があったわけではなかったわけだ。
第2に、明確に主張をするということは、いわば、ゼロとイチ、にわけろ、yes、noをはっきりしろということだが、簡単に2つに分けらることはそんなに価値が高いことなのか。あいまいであったり、その中間的な解がある場合はすくなくない。それをはっきりしろとせまって、中間を排することは、誤りしかおもえない場合が経験的にも多い。英語でさえ、insistということはほとんどない。あえて断定せず、mayを使うことも洗練した表現とされている。また英国では、badといわずnot goodというように婉曲にいうことが奨励される。成熟した言語ほど、あいまいに言いまわす言語技術をもっている。進んだ国だから主張をきちんとするのではなく、成熟しているからこそあいまいな表現をしているのではないか。

2009年5月13日水曜日

「断らない力」もあるはずだ(4)

では、なぜ断らないのか。それは企画の立場を考えてのことなのか。No、。一言で言えば、それはおおきな機会だと考えているからだ。自分のイメージしていないテーマであればあるほど、興味深いチャレンジになる。今までのシナリオと異なる内容を作る機会に恵まれたと考える。もちろん、気に入らない依頼もないわけではない。特に原稿依頼に多い。しかし、内容を作る前に、自分をつくることを大事にしている。自分の気持ちを作る前には、つまり、その気になる前には決して書き始めない。
もうひとついえば、依頼者に貸しを作ることの価値である。人的ネットワークが大事とはよく言うが、単に友達を作るだけが大事なのではなく貸し借りを作ることが重要だとおもっている。貸しをつくれば、次には依頼しやすい、借りていれば、何かで返そうとする、そのような付き合いが、貸し借りであり、ビジネスの基本だ。
一回一回を機会主義的に、是々非々で対応する人をあまり信じないことにしている。そのような人は、いざと言うときに助けてくれないからだ。自分ひとりでは多くのことはできない、人の助けなしにはおおきな仕事ができないのは当然だ。そのときに、助けてくれる人、できれば細かいことをいわずに、すぐに応援してくれる人たち、これを人的ネットワークとぼくは読んでいる。こういうネットワークを築くためにも依頼はできるだけ断らない、いわば資産になりうると考えているからである。

2009年5月11日月曜日

「断らない力」もあるはずだ(3)

依頼するときには、ある期待をもって適任と判断したから仕事を依頼する。それを断る人は、期待にこたえる能力と自信がないのだと判断されるかもしれない。さらに、たいした根拠もなく、断る人を、信用できない人として、2度と、依頼しないかもしれない。依頼する側を経験した私は、まちがいなく、そう思った。決して、自己主張のある、能力のある人とは思わなかった。
最近、おこったことだが、適任として依頼したが、内容に自信がもてない、まだ、未完成だだということで、断ってきた。その内容は、とても、光るものがあるから、進行段階の内容でいいから、話してほしいといったが、それでも、断ってきた。こうなると、実は、無内容なのではないか、あるいは、私に悪意を持っているのではないかと疑ってしまう。そして、2度と依頼することもないし、逆に依頼されても断ろうと思ってしまう。

2009年5月10日日曜日

「断らない力」もあるはずだ(2)

私が断らないのはなぜか。もちろん、すべてが気に入った企画であるわけもなく、そして、私が必ずしも適任だろうか、という疑問をもつことのもしばしばある。では、なぜ、断らないのか。
今までの仕事のなかで、依頼することのほうが多かったことはひとつの理由である。依頼する側の経験からいえば、断られることが一番、いやなことであることもよく理解できる。依頼するときの状況からすれば、明確に依頼内容を定義できていないこともあるし、単に、講演依頼に多いのだが、全体の基調となる話を、一定時間埋めてくれることが一番期待されている。聴衆の満足を与える内容であることはももちろん、重要であるが、時間オーバーであったり、遅刻したり、全体とチグハグな内容であたり、ドタキャンなどのリスクのない講師、そして、断られないことは、非常に重要である。断られれば、また、いちから次を探さないといけない。そして、開催時期が近くなるほど、断られるリスクは大きくなる。予定が入ってしまっている可能性が高いからである。
私に依頼が来るとき、どうみても、ほかを断られた末に、私にたどりついたと察せられる案件もしばしばある。その意味では、企画サイドからすれば、私は断られない部類に属しているのかもしれない。では、そこで断らないのは、自己主張のない行為なのか、生産性を悪化させる行為なのか。あらためていえば、時間的問題がなければ、断れないのではなく断らないのである。なぜか。