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2012年11月22日木曜日

武蔵大学は、こんな大学


11/2(金)NHKの番組「NEWS WEB 24」で、(テーマ 深く知りたい「新設に “待った” 少子化時代の大学のあり方は?」)武蔵大学が紹介され、 http://www3.nhk.or.jp/news/web24/ 司会者の後に、大学事情に詳しいコメンテータである(株)大学通信の安田さんが「ゼミの武蔵大学」と言う紹介があり、名指しで成功例として本学をピーアールしてくれました。この ”ゼミの武蔵”を積極的に担うために、私も新聞や外部セミナーでアピールした。すこしは貢献したのかと。


2012年3月31日土曜日

つなぐことがITの価値


 東日本大震災は、たしかに、100年に一度あるいはそれ以上の間隔で発生する稀な災害であることには違いないが、日本では、古来より大きな被災は、遷都、寺社仏閣の建立、政治体制の改革など、変革の重要なトリガーとなってきた。今回の震災も、福島原発、津波の被災などで膨大な犠牲者を前に、人災と呼ばれるような事態も少なくない。事前に対策を打っておけば、あるいは技術的に可能なことを実施しておけば、また、政治や行政がしっかりしていれば死なずに済んだ命の多かったかもしれないと、まさに、できることをしなかった後悔が多くの人たちの心に渦巻いている。これらを反省し教訓として、早急に改革を実施することでしか亡くなった方に報いることはできないであろう。
 では、改革とは何を変えることなのだろうか。現状を把握して改善することも重要であるし、トップダウンによって根本的に社会を再構築することも必要かもしれない。どちらにも現場とトップの意識改革が必要であることは言うまでもない。しかし、それだけでは不十分であろう。現代のような複雑な社会システムでは、改革とは、その社会システムの構造をも変えることを意味する。東日本大震災の被災地のさまざまな試みが既存の規制に阻まれてなかなか進まないとも聞く。制度と慣習の背後にある考え方や構造自体の改革がなければ実現されない。もはや複雑すぎる社会が形成されているからである。
 ITもまた、技術的に可能であったはずのことができなかったという苦渋に包まれている。BCPの議論がたしかに盛んであるが、サーバーを外部に置くことだけでは解決できない問題も多い。流失した住民記録が別の場所で保管されていたにもかかわらず、それを使用する規則がないために、使えなかったというエピソ-ドは象徴的である。また在宅勤務がITによって可能になったとしても、勤務制度、労務慣行がそれを許さなければ実施されることはないだろう。
 かつて、住民記録オンライン実施への反対者たちの批判をかわすために、セキュリティを重視し、目的外の利用を大幅に制限してしまったことが、ITの重要な価値であるデータの連携、データをつなぐ可能性を閉ざしてしまったのも事実である。その“つけ”を今回の東日本大震災が払っているともいえる。補償金の支払い、安否確認など自治体の果たすべき業務が滞った責任を、当時の反対者たちはどう考えるのだろうか。
 我々が議論を積み重ねてきた金流・商流・物流情報連携は、間違いなく日本のビジネス構造の変革を目指している。既存の業界、縦割り行政によって構築された個別最適的な現行のしくみでは、ITを利用したとしても、その潜在的能力を十分発揮させることはできない。それは技術的に困難だからではなく、規制や垣根、企業の姿勢など、IT化と同時に制度的、構造的な問題を解決しなければならないからである。まさしく、金流・商流・物流情報連携に取り組むことは、復興を促進させるための日本の構造改革に通じるところがあり、部分最適と継続的改善は得意だが、組織間連係、全体最適、構造改革が必ずしも得意とは言えない日本の弱みを象徴している。人と人、組織と組織をつなぐために、IT、とりわけインターネットを典型とするネットワーク技術は開発され、つなぐことでその価値が初めて認められるのである。
 国をあげてグローバル化に取り組むということは、貿易、すなわち遠隔地との生産物の交換、国内にない商品を他国から入手し、かつ国内がもつ優位な生産物を他国に売ることによって、国と国民が大きな利益をあげることであり、それは、大河ドラマの平清盛を見ずとも誰もが知っている。貿易の円滑化を奨励することが国の大きな責任であることも常識中の常識である。鎖国と言われた江戸時代末期に、海外との貿易に成功した薩摩、長州が、次の政権を握ったということは、まさしく貿易が変革に大きな役割を発揮していたことを示している。
 TPP、あるいは2国間協定などさまざまな形で、自由貿易を推進する新たな動きが起こるのは必然であるが、そこに、日本の弱み、つまり個別最適の限界と構造改革問題をひきずっていては、大きな成果をあげることはできない。政治にリーダーシップをもとめる風潮はいつの時代も変わりないが、緻密な社会システムの構築は政治家だけでなく、専門家、産業人、経済人の叡智のもとでの十分な議論の積み上げと協力体制なしには達成できない。新興国とFAXや電話で受発注するなどの時代錯誤があってはならないし、また、未成熟なシステムやIFRSのような欧米の標準や仕組みを強制的に導入するような愚をアジアで起こしてはならない。物流、商流、金流の連携における本研究会の成果の移転をもって、日本の経済的なリーダーシップを発揮すべき局面が現在なのである。
 これまで我々はグローバル化する日本の産業の未来への懸け橋の役割を果たし、ある意味で、準備的研究をしてきたともいえる。国内における物流、商流、金流の各プロセスをバリューチェーンとして連携し、日本の競争力強化の基盤的機能を整備し、そのモデルをアジアの貿易円滑化に提供することで、アジアにおける情報基盤のリーダーを担うことができる。
 貿易を通じた国と国民の富の増進に寄与するグローバリゼーションを目指して必要とされる情報基盤機能として、
①国際的サプライチェーン構築支援
②データ連携による相互運用性の向上
③新興国との取引の奨励
④ビジネスコラボレーションの向上
⑤single window、すなわち単一のユーザーインターフェースによる貿易にかかわるすべての情報交換の実現、の5つをあげておきたい。このための議論の深化こそ、日本の発展にとって、最重要かつ喫緊の課題であることは言うまでもない。

まだ道半ばであり、多くの英知と努力が不可欠であることは言うまでもない。

2012年3月14日水曜日

学位の品格

博士号というのがある。これを学位という。いわば最高学府である大学院が、認定する。それは最高の良識の証左ともいえよう。資格というのかどうかはわからないが、社会的に認知度の高いものであることに異論をはさむ人はほとんどいないであろう。
過去からいえば、文系では、いわば、歳をへた経験、実績を積んだ研究者が取得するものという認識が強いが、理系では、博士課程を修了した認証として授与されるという大きな違いが厳然として存在した。
それが証拠には文系では学位のない教授は、普通のことであるが、理系では、考えられない。格付けも、文系では教授の上に博士があり理系では博士の上に教授があるといってもよい。
海外では、よく言われるように、博士課程の修了が学位授与とする傾向があり、文部科学省もそれを奨励していると
される。つまり論文博士ではなく課程博士を重視すると言っているようだ。ちなみに海外で、たとえばホテルやコンファレンスで、自分の称号をしるす時、prof. とするか、Dr.とするかは意外に、気になる。どうも、profのほうが上ではないかと感じることがある。そんな違いが、文系、理系にあるのも確かなようだ。
しかし、この認定が実は研究レベルであるよりポリティクスによることも少なくない。”おれがもっていないのにどうして認定するのだ、オレはもっと歳をとってから取得した、なのにどうして認定するんだ”という好き嫌い、ネタミが少なくない。要は、大人げない社会的に未成熟な集団が意思決定をするからだ。このような社会で投票による認定という一見客観的な振る舞いが、日本の学位の品格を大いに低下させているのは間違いない。

2011年5月24日火曜日

貸し花壇はいかが。

場所は横浜市西区、野毛山動物園のそばです。
連絡は matsu1948@gmail.com

2011年5月4日水曜日

原発問題での安全基準(1)

 東電や政府に向かって情報公開、それも安全基準のデータを示せという声が少なくない。たしかに、暫定値だの基準値などが都合よく変更されているのを見ると、もっと客観的な科学的データを示せという意見は妥当なものと思える。
 しかし、客観的な安全基準がどこかにあるように思うのは明らかにミスリードだ。あるはずがないのだ。豊富なデータから真実を見極めるという実証的手法が適用できるはずがないからだ。どのくらいで人に悪影響が起こるなんてデータは、人体実験でもしない限り、あろうはずがない
 科学技術にはいつも、客観的、科学的知見があるという誤解が、多くの人にあって、ないものねだりをしたがる。政府や東電に向かって情報公開を迫るのはいいが、安全基準は、社会的、それも政治的にしかつくられない。安全をうたう人はそのためのデータを示し、安全でないという人はそういうデータを示しているだけなのだ。おそらく両者とも客観的データに基づいているというはずだ。

2010年9月7日火曜日

武井淳 「ビジネス構造化経営理論」


武井淳執筆による 「ビジネス構造化経営理論」 を読んだ。


 大著であり、なかなか読みこなすのに大変だが、ビジネスを情緒的でなく構造から 理解し、その変革を提起している姿勢に共感を覚える。 日本では米国に比べて、なぜか、実務と学界の距離がなかなか縮小しないのが現実で、 努力の割に進まない。 このように実務家が単なる事例紹介を超え、多くの理論を踏まえた、いわば研究成果 として出版されることは、ほんとうに喜ばしい。
 学界はこれまで、このような、特にコンサルの手になるものを軽視しすぎていた。 しかし、学界が実証主義的研究が過ぎて、こまかいいわゆる重箱の隅をつうくといわ れて久しいが、それでなければ業績とみなされず、学会誌にも掲載されないとい う制度上の問題を克服できていない以上、多くを期待する訳にはいかない。
 コンサルの強みは、いうまでもなく、実際の企業の生の声、そして、人間が経営して いるという感触を肌で得ている点である。しかし、それを、そのまま書くというのもま た、学界との距離をちぢめることにつながらない。 今回のような理論を踏まえながら、あくまで最適化、全体性を重視した論考にこそ、 価値があると考える。 たとえば、「事例主義からの脱却」には非常に共感を覚える。エクセレントカンパ ニーの事例研究はそれなりに価値はあるが、それが汎用化されうるのか、企業 のコンテキスト、資源ベース風にいえば経路依存性(その企業の歴史をふまえた)を、 十分、認識しなければ、安易に参考に出来ないはずである。そこに、解釈や、志向性( 働きかけ)のはいる余地が十二分とあると考えるからである。
 構造化理論はある意味で客観性重視であり、構造改革のためのものである。 この本が、日本の経営も大きな貢献をするとともに、日本のコンサルビジネスの発展に寄与 することを願ってやまない。