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2016年11月27日日曜日

正しい知識は、本当に正しいのか

近代科学は、正しい知識、すなわち真理の探究が、絶対に正しいという前提がありました。
しかし、それは本当に正しいことなのでしょうか。
少なくとも、情報過多、知識が容易に入手できるようになると知さ式の相対的価値の低下を引き起こすとともに、正しい知識の有効性さえも疑わしくなります。
たとえばです。がんであることが分かった患者にそれを告知する際に、過去の症例にもとづき、3か月以内に死ぬ確率が9割ということが、ほぼ正しいとしましょう。生き残る確率が1割です。それを患者に語ったところ、患者は悲嘆にくれ、生きる望みを捨て、食事ものどに通らず、3か月もたたず、1か月後に死にました、としましょう。
それに対して、回復する可能性は6割あります。一緒にがんばりましょう、といったら生きる望みを持ち始め、食事も、行動も積極的になり、10年生き続けたとしましょう。
果たして正しい知識とはなんでしょうか。もちろん、正しい知識で言っても1割は生き残る可能性があったと言い張れるでしょうか。
死んだ人にとっては、死ぬ確率が4割であっても9割であっても、死んだらその人にとっては10割です。生き残った人にとって、死ぬ確率は0割です。
6割生き残る確率があると聞いて生きる気力が高まり、生き続けることができた、という事実の前に果たして正しい知識というのはどれだけの価値があるのでしょうか。
間違いないことは、生き続けるという価値ある結果をもたらした知識が正しかったということです。
そのことは、死ぬ確率が9割、という知識は誤りで、6割生きる確率があるという知識が結果的に正しということなのです。
それが21世紀の、知識の相対性、また、知識の正しさはその客観的正しさによるのではなく、正しい知識とは、価値ある知識とは、社会的に構成されうるということなのです。
それが、私にとってプラグマティズムの役割りなのです。

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