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2015年10月27日火曜日

創生する未来事業と地域活性化

 一般社団法人クラウドサービス推進機構の重要な事業の一つが「創生する未来」です。テレワークなど、クラウドを活用することで地域の活性化、とりわけ新しい仕事の仕方を再考することで、仕事を地方に移転できるかどうか、それが、この事業の大きな取り組み課題です。
しかしながら、地域活性化に有効な手立ては決して多くありません。むしろ、失敗の連続といってよいでしょう。田舎にパソコンを持ち込み、お年寄りに使ってもらおうという実証実験、マルチメディアスタジオを過疎地に設置し東京の大学生がそこを起点として活動するなど、話題となった事業のほとんどは、地元不在でほこりをかぶっています。そのような悔恨と反省の山が、日本中そこかしこにあります。
私たちは地方創生、地域活性化にどれほどのことができるのでしょうか。地方を持ち上げるだけ持ち上げて、はしごを外した人たちをたくさん見てきました。私たちもそれに少なからず加担してきましたし、身体を壊したり、行方知れずになったりした人を数多く見てきました。私たちができることは、あたかも現在に坂本龍馬が必要だというような無責任なリーダーシップ待望を議論することではなく、熱い心を持つ人に敬意を払い、その活動を安易に批判せず、邪魔せず、手を貸すということではないかと思います。なにより、地道な作業の積み上げ、熱いチャレンジの心と進取の気概が、地域活性化を語る人たち、地域のリーダーに手を貸す人たちに不可欠だと思います。しかし、そのような心が見えない人たちも少なくありません。
地方の活性化が叫ばれて久しく、さらにITを活用することで地方が活性化されると期待されてずいぶん経ちました。少なくない事例がメディアを通じて紹介されました。しかし、東京一極集中、地方の疲弊、限界集落増大が止まる気配はありません。
古代における地方の豪族支配から、国家による中央集権という変遷が歴史の大きな流れであるとするならば、また、富と人材と情報が集まる場所に支配的な力も集まってきたことを思えば、地方、あるいは地域の存在価値自体が減少することは歴史の必然なのかもしれません。
しかし、今の世界の情勢では、第二次世界大戦後の米ソの冷戦、ソ連崩壊後の米国の影響力拡大を経て、世界の支配勢力が後退し、Gゼロ、つまり世界に主導的な国が存在しなくなり、もはや、地域の紛争、諸問題を解決しうる軍事力、資金力、外交能力をもつ支配的勢力がなくなったといわれています。その間に、資本の論理が世界に充満し、富の格差が拡大してきたというトマ・ピケティの経済学も多くの支持を得ています。
日本においても、中央主導による「地方創生」という一見矛盾した政策に多くの人たちが望みを託していることも間違いありません。しかし今回の「地域をみがく」と題したパネルディスカッションは、この流れに異を唱えているのかもしれません。行政的な区割りである市町村の名前にとらわれるのではなく、歴史文化的に価値を高めるためにこそ地域を組み合わせることが提起されました。それこそが地域主導なのだと語り合われています。
 「地域をみがく」とはまさに、みがくに足る地域の再設定、それをデザインし直すことであり、また「こうすればみがかれる」というものではなく、主体的な取り組みなしにできるものではないのです。そこには、それをやり抜く人材が必要で、育成されなければなりません。しかし果たして可能なのでしょうか。
考えてみれば、日本はユーラシア大陸の辺境の地でした。大陸との間に海水が入り島国になりましたが、大陸、とりわけ中国から見れば変わらず辺境の地でした。そこに経済、文化的にも、第一級の地域が構築できたことを思えば、地域のあり方に関する膨大な経験とノウハウがここに蓄積されているはずです。多様な文化を融合してきた長い歴史がそれを物語っています。例えば、文字の伝来はその国の文化を大きく変えてしまうものですが、私たちの祖先は、音訓というきわめて奇妙な方法を編み出し、従来の文化と輸入文化の二重性を保持しながら使いこなすことに成功しました。当時、日本のことを「ヤマト」と発音していたようですが、それを中国は、「倭」と表記したにもかかわらず、日本では「大和」と表記しました。どこが「ヤマ」で、どこが「マ」なのかさえあいまいなままです。その後も「大」を「ヤマ」とも、「ヤ」とも読みすることはなく、「大和」は「ダイワ」であって「ヤマト」と発音することは長い間、なかったのです。
 さらに輸入された漢字だけを用いるだけではなく、仮名を発明し、カタカナも作り上げ混ぜ合わせて使いました。「土佐日記」などの古典に見られるように、公的・私的文書、男女や身分によって漢文と仮名の使い分けがなされていたようです。明治以降も、公式文書にカタカナが用いられるという多様な表記を駆使してきました。これらは中央から強制されただけではなく、地域の文化、そして民の知恵のなせる技ではなかったかと思います。
 もちろん、植民地という強制的文化支配が行われなかったことも大きく作用しているでしょう。しかし、それ以上に、地域が持つ文化への誇り、アイデンティティへの意識が、自分たちがもつ文化と輸入された文化との融合の方法を作りだしたといえます。

 辺境の地にあって、このような歴史と経験を持つ私たちが、中央集権的な統治から地域主体の構造へと変革することは、難しくはあっても乗り越えることができるような気がします。私たち自身によって、未来は創生するしかないのです。

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