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2016年9月24日土曜日

「クラウド時代の支援者の価値」IT経営ジャーナル第3号、巻頭言より

http://contendo.jp/store/itebook/Product/Detail/Code/J0010365BK0033391003/

私たちのクラウドサービス推進機構は、中小企業の経営強化に向けてクラウド活用を促進するために、中小企業、クラウドベンダー、支援機関と連携し、知恵あるハブ、つまり連携の媒介となるべく活動を行っている。
それらの活動を通じて、クラウドが普及することで、高度専門家である支援者の価値が変わりつつあることを実感することが多い。クラウドの活用は基本的にユーザーとベンダーが直接、つながることが大きな利点であり、通常で考えれば、高度専門家としての支援者の価値も低下するのはやむを得ないようにも思える。
この巻頭言では、もっと基底的な部分で、高度専門家をめぐる由々しき事態が進行していることを考えてみたい。

わからない、時代に
 年初から株価が急落し、原油価格の急激な低下だ、中国の景気減速だ、などあれこれと専門家が理由を述べていたが、結局は白旗を上げ、これまでの理論では答えがない、わからないと言っているかのようだった。同じようなことが熊本地震の際も言われた。専門家は、予知はできなかったのか、予兆はなかったのかといわれて、予知はできないと明言した。
英国の国民投票によるユーロ離脱は、多くの専門家による、最終的には残留を意思決定するだろうとの予想を覆す結果となった。さらに、米国のトランプ旋風に対して、最初は、嘲笑していた専門家たちも、大統領になることを真剣に想定し始めている。この原稿執筆時点でなお、専門家たちは、可能性は低いと言っている。
このように、想定外やわからないことが増えたということは何を意味するのだろうか。専門知識をもって成り立っている専門家でさえ、この事態に無力であると吐露しているかのようである。そこに共通するのは、従来の支配的な考え方が覆され、その支配的な意見を構成する専門家たちの予想を裏切っていることである。ここでいう従来の支配的な考え方とは、客観的な因果関係を示す専門的知識が正しい方向に人を導くのであって、それにしたがっていれば、大方、間違いないという、多くの人の持つ科学に対する共通の信念であったといってよい。
現代が信奉する科学とは、原因と結果の因果関係が説明可能であることを意味する。ニュートン力学で言えば、質点の位置と加速度がわかれば、何時間後かの状況がわかることである。いわゆる因果関係の客観化、今の情報がすべてわかれば、将来のことがわかるという知識観から成り立っている。再現性、客観性とは、誰がやっても結果が同じで、自分が関わらず傍観者の立場にいて、誰がやっても、自然に同じ結果がついてくると考えているようなものである。
政府の地震調査委員会は、今年の6月に東京は30年以内に震度6以上の地震が発生する確率が47%だ、と発表した。これは備えをすべきであるとの警告であるわけだが、これを聞いて、防災の準備をする人はどれくらいいるだろうか。一定の理論はその理論を共有する一定の研究者の間では有効と言えるかもしれないが、それ以外の人に大きな説得力を持つとは限らない。明日、起こるといえばほとんどの人は避難するかもしれないが、この説明が行動を引き起こすことはなく、結局、何の役にも立っていないのである。 
「まさか」のような事態が起こるというのは、統計的にしかとらえられないと理論家は言うだろう。統計学は最強の学問であるともいう人もいる。その人たちにとっては、確率で捉えるのは理論的に正しいというのかもしれない。しかし、10年後に地震が起こったとして、それは30年後に発生する確率、47%の数値が正しかったことを立証したことになるのだろうか。逆に30年後までに発生しなくても、間違っていたとはいえない。結局、事後に検証できないことは変わりない。今回の熊本地震の反省から、2016年8月、地震調査委員会は将来、活断層で地震がおこる確率について現在の数値で表す方法をやめてランクで公表することを決めたほどである。
このような、どちらにころんでも言い訳ができるような理論がはたして人の心を動かすことができるのだろうか。経営者からいえば、経営は、成功か失敗であり、それによって、その経営者の評価は決まる。成功でも失敗でも、戦略は正しかったというのを誰も認めはしない。それが、「切れば血の出る経営実践」であり、事後に検証できない理論は、実務者からも屁理屈であって、実効性が乏しく、それでは行動できないと揶揄されるに違いない。

知識のコモディティ化
現代に起こっている事象は、知識の相対的な価値低下、いわばデフレーション、あるいはコモディティ化を示しているといえる。供給が増えて需要が減れば価値は確実に低下する。インターネットと検索エンジンの登場によって、膨大な知識が、簡単に、迅速に入手可能になり、図書館に行って本を読むよりも早く簡単に必要な情報や知識が入手できるようになった。明らかに知識の供給は増え、ほとんどコストをかけずに入手できるので、知識の価値は低下せざるを得ない。
さらに、資源ベースの理論を借りれば、希少性、模倣可能性、経路依存性というと価値命題は、インターネット、さらにデジタル化によって間違いなく知識の価値を低下させている。さらに、何が正しいかという基本的な知識を得るために、教員や専門家を探して聞く必要性はほとんどなくなった。ネットに接続して聞けば済むことである。
このように知識のコモディティ化は専門家へのニーズを低下させている。弁護士、公認会計士、中小企業診断士などの高度な専門家は、知識社会に必要とされ、仕事が保証されうる有力な職業として多くの期待が寄せられた。旧来の人材を高度知識人材に移行させるべく、膨大な数の教育研修プログラムが、国を挙げて、実施されてきた。それがまさしく、技術革新によって仕事を失う人の救済と転職を促し、雇用を確保できる施策であるとされた。しかし、その期待は裏切られたといってよい。高度知識人材への転換は思うようにいかず、結果として世界中、格差は広がっている。かつての中間層の多くは、高度知識人材に進むよりも、非正規雇用に甘んじるしかないように見える。もちろん、転換は簡単なことではない、甘えだという声もある。しかし、格差社会の新たな現実は、高度専門家の給与でさえ低下し、独立して事業を行えるのは、また一握り、という事態を引き起こし、成功者は数少ない。
よく考えてみれば、専門家というのは、その時々の技術革新から最も影響を受ける職業かもしれない。技術革新は価値の大変化を引き起こすからである。文筆家は、出版不況の一因であるデジタル化によって間違いなく仕事は減少している。ミュジシャンは、カラオケによって伴奏の仕事が減少し、いま、iTunesなどのネットダウンロードの定額化によって、確実に収入の減少に直面している。eラーニングによって教員も不要になるかもしれない。少なくとも、アクティブラーニング中心の時代に、従来型の知識移転のための教員の役割が低下することは間違いない。
いまや、情報化などの技術革新は、肉体労働者ではなく、旧来の専門家にこそ大きな影響を与えている。それはまた、“こうすればこうなる”という今までの客観的因果関係モデルを知識ととらえている傍観者的な知識観の終焉をも意味している。
もちろん、理論やモデルの厳密化をめざせばめざすほど、普通の人には理解困難であることは、日常感じることである。いかに、相対性理論が正しいといっても、説明を聞いてもちんぷんかんぷんであれば、多くの人にとっては、単に科学だから正しいのだろうという信念を共有しているに過ぎない。さらに、私たちがかかわる経営、あるいは経営学においては、結局、だからなんなのだ、何の役に立つのだ、ということになり、行動に結びつけることはできない。
IT投資も同じである。IT投資が必要なことはわかっているとはいっても、実施しないのは、知識として理解してはいるが、実行するほど納得はしていないのであって、決して、その経営者のITリテラシーが低いからではない。たとえば、IT投資をいくらすればいくら儲かるというのはIT投資マネジメントの基本であるが、これを実行する担当者の努力に結果が左右されることが無視されている。トップが意思決定さえすれば、結果はついてくる、いわば、正しい意思決定が正しい成果につながるという因果関係モデルはもはや適合しない。

行動に仕向ける介入的知識
私たちの経営理論は、近年、あまりにも、戦略論に偏重しすぎたかもしれない。いわば、事前の机上の計画作りに重心を置きすぎたかもしれない。その結果、予想できない、不確実、想定外という環境変化への対応が難しくなったのである。サプライズ、というのは過度な客観的な因果関係追求の結果であって、多くの現場の経営者は、事前の周到な計画作りよりも、たとえ間違ったとしても、迅速な意思決定と、素早い修正が効果的と考えている。もはや、経営者は意思決定するだけではなく、行動し、データを集め、方向を修正するようになってきた。今のデータがすべて揃えば、将来を見通せるという傍観者的知識観は、科学偏重による、あるいは科学の成果が経営に生かせるとする傲慢さの表れでしかない。社会、人間、そして経営はそんなものではない。
プロジェクトがうまくいったのは、トップが適切な意思決定し、優れたプロジェクトリーダーがいたからと説明されることが多いが、見方を変えれば、トップがプロジェクトの問題点を偶然発見し、早く手当てをしたからかもしれないし、偶然、プロジェクトリーダーに優れた人材を割り当てられただけかもしれない。
目の前の風景をみていても、網膜に映るものすべてが意識にのぼるわけではなく、志向性(intentionality)の対象だけが残るのであって、傍観者的に見ているのではなく、主体が対象に介入しているからこそ記憶に残るのである。IT投資も実施しようという志向性があれば行動に結びつけることができるが、そうでなければ走馬灯のように、過ぎ去る知識、消えゆく知識、必要になったらネットで検索すればよい類の知識でしかない。
これに比べれば、街の占い師のほうが、技術革新の影響を受けにくい専門家かもしれない。顧客が納得しない限り持続的なビジネスにはならないし、科学万能と呼ばれるこの時代にも生き残れている。AIやロボットなどの技術革新によって仕事が奪われるということは間違いないように思える。人間が仕事をしなくてもよくなり、創造的な仕事に専念できるようになる、という楽観的な期待を裏切り、知識のデフレ化、コモディティ化が進み、そして、高度専門家の価値をも低下させるに違いない。そのために、新たな訴訟をひんぱつする弁護士は、集団訴訟という新たな道具も利用するなど、高度専門家も無理やり仕事をねつ造するしかない。
しかしながら、多くの専門家が失職しても、生き残る専門家もいるだろう。米国の経営学者のほとんどは、ドラッカーの本を読んでいないといわれるが、ほとんどの経営者はほとんどの経営学者の名前は忘れてしまうであろうが、ドラッカーの名前は、記憶から消えることはないだろう。それは何を意味するのだろうか。
テレビで多くの人がみている番組の一つは天気予報かもしれない。今日の予報を聞きながら、今日の行動を決めようとするからである。決して天気図を知識として学んでいるわけでもなければ、高気圧や低気圧の意味を知ろうとしているのでもない。降水確率がどのように算出されるかには興味なくても、傘を持っていくかどうかを判断するために役立つ情報だと思っている。
失敗した社員に向かって、「お前は役立たずだ」というのは、客観的には正しいかもしれないし、がん患者に向かって「お前はガンだ」と告知する専門家は正しいことを言っているのかもしれない。しかし、その結果、上司を見限り、会社を辞めるかもしれないし、病名を聞いて生きる気持ちがなくなり自殺したとすれば、客観的知識を伝えることは真理なのだろうか。その時に、俺は間違ったことは言っていないといいう専門家がいかに空虚であることか。
どう行動するか、行動に結びつける知識こそ、いま、求められている。認知科学療法では、まず治ると信じさせることから始めるという。行動が前向きになることで、治る可能性が高まるからである。正しい推論から正しい行動が生まれるのでなく、正しい行動に向かわせること、正しい結果に向かわせる知識こそが真理なのである。
「失敗したからと言って、くよくよするな、この失敗を次に生かそう」、「治ったガン患者はたくさんいる、治るよう頑張ろう」というのは、相手の行動に結びつけるよう仕向けている。次の行動にどうつながるか、行動の成否でしか理論の正しさは証明できないのである。
理論的に、いかに正しくても、行動に仕向けないのであれば役立たない。無力である。介入することで、行動を引き起こし、良い結果を生むこと、それが今、最も求められる高度専門家の役割である。それは、占い師が消えないように、価値のデフレを生じない専門家のあり方かもしれない。
ゴルフで、いい成績が残せたとき、多くの人は、パートナーにめぐまれたという。しかし、それは、決してパートナーがいいのではない。与えられた機会を最大限、生かし、偶然も味方したのだ、ということをみんなが知っている。j












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