2022年5月17日火曜日
2022年4月24日日曜日
2022年3月4日金曜日
地域の人材について
1. 世代変わりが進んでいますが、まだ、私たちのような団塊の世代が、要職に在り、保守的な性格から脱却できていない地域が少なくないようです。若返りを進め、若い世代が活躍できるよう刷新してほしいです。
2. 地域の若者を地域に就職させたいという政策は理解できるのですが、そういう若者囲い込みが、果たして、若者にとって幸せなことなのか、地域にとって、よいことなのか、最近疑問に思っています。都会、さらに海外経験が、実際には地方にとって、新しい事業発足にかなり有効です。UJターン人材が地方で果たした役割を考慮すると、囲い込むだけでいいのか、と思っています。
3. この失われた20年で、大企業の地方拠点の閉鎖が進んでいます。工場も減っています。転勤が少なくなっています。また、地方の大学教員が少なくなり、有識者の減少となっています。このような人材がこれまで、コミュニティビジネスに果たした役割を考えると、大きな問題と現場で感じています。
4. 都会と地方との人材交流が必要かと思います。人生の重要な転換点、子供の就学、会社の中での職位の変化、親の介護、などのタイミングで、地方が有力な選択肢となるよう、仕組みつくりが大事と思います。
2022年2月19日土曜日
地域未来へのデジタル投資~日本はなぜDXできないのか
デジタル人材が何十万人足りないと叫ばれている。確かにデジタル化には人材が必
要かもしれないが、それでDXが達成されるわけではない。つながらない個別デジタ
ルをたくさん作っても、使えないデジタルのムダが積みあがるだけである。業務も
データ項目もバラバラ、さらにペーパレスといってFAXからPDF転送に変えても、つ
ながらない。データが自動伝送され自動的に処理されることがデジタル化である。
企業間業務でのデジタルはもっと悲劇的である。価格一つとっても定価、上代、卸
価格、数量値引き、出精値引き、キックバック、リベート、キャンペーン価格、バ
ックマージン、割り戻し、原価に戻すか、販売費に計上するか、振込手数料はどち
らが負担するのかなど、業界ごと、各社ごとの煩雑かつ定義もあいまいな商慣習と
取引ルール、日本全体では、何10万社と何10万社とが企業間で確認・調整しなけれ
ばつながらない。中小企業が、一社依存の下請け体質から脱し、複数の顧客と取引
しようとすれば、その煩わしさは増大する。
デジタル化の前提は簡素化と標準化にある。大企業ごとの取引ルール、いわば方言
を標準語に変えなければ、取引の会話は成り立たない。中小企業の共通EDIが作られ
てきたが、調整するための膨大な作業が必要なため、一定の成果は上がったとして
も広がりは限定的である。つまりデジタル人材が増強されても、企業間のDX、すなわちEDIは一向に実 現しない。
かつて ERPが日本に導入された時、ベストプラクティスと呼ばれた標準的な業務に移行するチャンスが一度だけあった。しかし、パッケージに業務を合わせたくないとして、カストマイズに次ぐカストマイズを繰り返し、煩雑な企業間業務を中小企業に押し付け、大量の負の遺産を作り出してしまった。
新型コロナ対策と同じようにDX緊急事態宣言を発出し、「日本経済の成長に不可欠なデジタル化を最優先に必要な対策は躊躇なく実行する」、とりわけ、国、業界あげて、企業間業務の簡素化、標準化、さらに自動化に取り組まなければならない。いかに大企業
が人材投資やSDGsを語っても、それは株主対策でしかなく、日本にデジタル社会を
実現させることにはつながらない。
従来から、アトキンソンらは、日本の低生産性の元凶は中小企業にあって、厚い補
助政策が、中小企業をダメにし、退出すべき企業の延命を図ってきたと述べる。し
かし、少なくとも、中小企業の生産性の低さは、経営者のせいでも、ITリテラシー
の低さでもない。
「日本の中小企業の生産性が低いといわれているが、・・・社内より企業間のやり
取りに無駄があり、中小企業にしわよせがいっている。・・・企業間がデジタルで
つながり、業務連携が自動化できれば、中小企業の生産性は大きく向上する」(岐
阜新聞2021.09.16、松島コメント)。
多くの地方の中小企業は大都市の大企業とばかり取引しているわけではない。まず、
厳しい環境下にある地方の金融機関に、地域内経済圏域における取引のデジタル化
のリーダーシップを発揮してもらいたい。受発注データ管理から電子インボイス発
行代行・回収、そして決済業務に至る中小企業の基幹業務を支援するとともに、中
小企業の資金運用サービスを組み合わせることで、経営者が安心して経営に専念で
きるようになる。中小企業のDXとは、安定した財務基盤と安心して接続できる業務
連携基盤の上にビジネスモデル再構築を図ることである。
国が何かをしてくれるのを待っていては、DXの機会を逸してしまう。主体的に連携
基盤を創り地域未来に向けたデジタル投資を行うことが真の地方創生につながる
2021年12月31日金曜日
「我が家のトップニュース」
今年3月末に、東京から富士山のふもとに移住しました。
木々に囲まれ、健康的な生活、
不便な点は多々あります。ATM、コンビニ、郵便局、スーパー、
とはいえ、病院通いが不便です。大病院とかかりつけ病院、
2021年9月14日火曜日
アフターコロナ、改革のなかの真実
「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(方丈記)
あの時代もまた変化が激しかったに違いない。私たちはいつも、現代を激変と呼ぶ。技術の進歩、情報の氾濫、流行の移り変わり、どれをとっても変化の激しさを日々感じさせる。昔はもう少しのんびりしていたと懐かしむことも多い。
しかし、激変は現代に限らず、どの時代の人もそう感じたのかもしれない。歳を取るにしたがって、時間が早く過ぎ去っていくと感じるのも、自分の能力の衰えや、変化についていけないからに違いない。
私たちの子供の頃はビッグバンも大陸移動説なども教えられなかった。知識は変わりやすく、学ぶ意欲がなければ、すぐに時代に追いつけなくなり、古いといわれる。学ぶ意欲を持ち続けることが大事であることは、時代を超えて変わりない。腕のいい職人であっても、その技能を新しい環境に合わせて学ばなければ、その技能も間違いなく陳腐化し、伝統を守ることさえできない。伝統を守るということは、更新、さらにいえば、改革と同義なのかもしれない。
改革とはなんだ
NHKの大河ドラマ「青天を衝け」では、日本資本主義の父とも呼ばれる主人公渋沢栄一が、幕府転覆という、まるでテロリストと見間違えるほどの過激な思想の持ち主であったことに驚かされる。思えば、吉田松陰でさえ、思想的にはテロリストを輩出する過激な思想家といってよく、その思想に忠実であった若者の多くが、若くして殺害され、明治維新という改革の夢を見ることはかなわなかった。
いつの時代も血気盛んな若者の、先頭に立って世の中を変えようとするエネルギーが改革の源泉なのかもしれない。同時にそれを利用しようと図る体制派や気まぐれな世論などが、社会的なムーブメントとなって初めて改革が実行されるのかもしれない。もちろん、桜田門外の変、五・一五事件、二・二六事件などのように、結果から見ても、若者の意欲がすべて正しかったとは言えないし、それが歴史を逆に回したことも事実であろう。
その後、開国に反対した幕末の志士たちが、渋沢栄一がそうであったように、現実主義として開国に転じ、明治維新後に政府の要職を務める。悲しいことに、若者が唱えた改革への野望は、最初にめざした形をとどめないほどに消費され、食い散らかされ、血を流し、初めて実を結ぶのかもしれない。
かつて1969年秋、自民党政府が倒れるのではないかという幻を、一瞬、見た気がする。しかし、倒れることなく、それを唱えた多くの若者は、現実に転じ、団塊の世代を構成し、現在なお、体制の主流をなしている。そして、あの時の過激なほど原理に忠実な若者の末路は悲惨であった。
いつの時代も改革を純粋に叫んでいる若者の末路に対して、煽った知識人、評論家、メディアはいつの間にか霧散する。それも、ひょっとすると、改革の真実なのだろうか。
その姿を2000年前後のITバブルにさえ見ることができる。ITベンチャーと、もてはやされて、起業し、失敗して離散、自らの命をたったものさえいるにも関わらず、ほとんどの煽った人たちは、何の手助けも出来なかった。私たちは、彼らの道筋を、もっとしっかりと支えるべきではなかったのか。
なぜ、改革は、初心を貫けないのだろうか、初心を貫いた若者の犠牲の上に現実に転じた勢力や、もともとの守旧派が主力となって、現実を変えていくというのはなぜだろうか。
改革はなぜ進まない
政府のコロナ対策としての協力金の支払いが、多くの申請を人が確認しているために、対処できず、遅々として進まないと聞く。国民に定額特別給付金を支給する際も、国と地方自治体が管理するデータの齟齬によって、多くの時間と手作業を必要とした。
地方自治体がワクチン接種を進めている間に、政府が集中センターを作り接種を加速する、という。政治的判断ではあるが、データの一元的な管理、とりわけ、誰がどこで接種したかの実績情報の迅速な把握はほぼ困難になるだろう。十分な議論なしに実施すれば、このようなことが起こるのは明らかである。強行なしには改革が前に進まないのも現実であるが、デジタル化を阻害する加害者は、このようなデータに関する基本的な理解不足なのかもしれない。
今や、改革の大合唱である。保守であるはずの自民党内閣でさえ、改革を唱えているほどである。それなのに、改革は一向に進んでいないと多くの人は嘆く。こんなに、国民の多くの賛同を得ているならば、改革が進んで当然ではないだろうか、民主主義の時代に、選挙で選ばれる議員も、例外なく、今のままでいいとは言わず、改革を唱える、その人たちが選ばれているにも関わらず、改革は進まないとすれば、何かおかしくないだろうか。
改革したいのか、本当は改革したくないのか、あるいは個人は改革好きだけれども、その集合体である組織や社会は改革を望んでいないのだろうか。経営環境、経済環境、技術革新など、すべてが、激変、変化が激しいと語られているのに、社会が変わらないというのは、なぜだろうか。
電車に乗っているとき、隣に来た電車が動いていれば、止まっているように感じるし、逆にこちらが止まっていれば後ろに動いているような錯覚に陥る。環境と一緒に変わっているのであれば、人の目には変わっていないようにも見える。変わっているけれども、変わっていないと思っているのは、錯覚なのかもしれない。社会も制度もとっくに変わっているのにも関わらず、改革を唱えるのは、自分が動かないので、周りの激変に遅れていると思い、焦っているのかもしれない。守旧の人ほど改革を口にする理由がそこにありそうだ。いまだに改革を邪魔している加害者の存在は見えてこない。みんな被害者を装っているかのようだ。
改革という響きに、自分は何かをしているかのような心地よさ、安心感、安ど感があるとするならば、いわば、改革を口にすることで改革の側にいることを装える自己満足感、自分の身の保全と安住を図っているとも思える。いわば改革という名の保守、まさに逆説的な帰結なのかもしれない。
DXは改革に値するのか
DXにおいても、メディアが持ち上げ、数年後に失敗したと捨て去る、といういつものプロセスが繰り返されるかもしれない。IMS、SIS、BPRと、これまでもそういわれ続けてきた。しかし、私たちはメディアに振り回されるだけなのだろうか。言葉の流行が終わって何も残らなかった、とも言われるが、その中から確実に成果を作ってきたことも間違いない。
例えば、IMSでは、当時のコンピュータへの期待が強すぎてそれを処理できる能力が、まだ備わっていなかったと総括されることが多い。しかし、実際には汎用コンピュータの登場によって、磁気ディスクの技術をもとに、ファイル構造の改革、トランザクション処理、オンライン化への基礎固めを行うことによって、銀行オンライン、在庫を中心とした生産管理、新聞製作へのCTS化など、利用上のまれに見る大きな発展を遂げた。
SISにおいても、企業の経営戦略とIT戦略の整合性という課題に取り組みながら、商品戦略、販売戦略に情報を活用する大きな発展を遂げた。さらに、BPRでは、従来業務をそのままシステム化するのではなく、業務の根本的な見直しを提起し、大きな賛同と事例を作り出したことも事実である。
デジタルトランスフォーメーション、すなわちDXもまた、バズワードと批判されようが、そこには間違いなくコロナ禍での体験からデジタルで改革したいというニーズの最大公約数的な役割を果たしている。もはや、カイゼン、リエンジニアリング、リストラクチャイングとどう違うのかと問うことはほとんど意味がない。
IMS、SIS、BPRの3文字群は使い捨てられたかもしれないが、それを経由して、現実的な解を作り出し、着実に成果を作ってきたことも、一つの真実には違いない。DXも、数年後には忘れ去られるかもしれないが、進化をもたらすことは期待してよい。それがおそらくDXの真実となるはずであり、その意義を追求することを怠ってはいけない。最後に残るものに真実があるとして、さて、そのDXの真実とは何だろうか。
DXの後に残されるもの
今後、DXという言葉が霧散した後、何が成果として残るだろうか。すでにほとんどの企業や組織ではパソコンを導入しワープロ、表計算などのオフィスツールを活用し、インターネットにつないでメールやブラウザーによる情報交換、情報収集を実施するなど、実は、相当程度、日常生活、日常業務にデジタル技術は浸透している。それらの既存のデジタルの仕組み、さらにデジタルデータ間をつなぐことがDXの重要なテーマであるとされる。
もちろん、今でも業務上はつながっている。しかし、手作業によってである。オンライン申請であっても印刷してその内容を確認してクリックするのは、デジタル結合ではない。申請データをプログラムが自動チェックして、必要な時にだけ人の介入を要請する、それがデジタル結合である。
さて、デジタルトランスフォーメーションとは何を意味するのだろうか。字句通りに解釈すれば、フォーム、つまり形を、トランスフォーム、つまり変える、ことであるが、トランスには、さらに、ある状態から別の状態に移る、転じる、横切って、超越して、という意味が含まれている。
また、トランスが付く用語にトランザクションがある。トランザクションは一般に取引と訳されることが多いが、tradeやdealとは異なり、外部との間で処理することを意味している。すなわちDXには、分散されている様々な組織、機能、データをデジタルでつなぐことが期待されているとも思える。
企業活動を要約すれば、外部から調達して、付加価値をつけて外部に販売する、つまり、ビジネスとは、外部からトランザクションに始まり、外部へのトランザクションに終わるといってよい。A社のアウトプットはB社のインプットであり、A社から部品が発注されれば、そのデータはB社に注文データとして伝送され、在庫を検索し、なければ製造手配をして、工場の製造日程などを勘案した納期回答をA社に送る。これらの一連の流れに、少なくても人が関与する必要はない。これまで、社内の業務効率化が追求されてきたが、最も無駄が多いのは、このような企業間でのやり取りである。
私たちは、1990年代末のERPの登場の意義をいまだに理解していないのかもしれない。その最大の意義は、アナログ的な業務処理を、デジタルを主体とする業務の流れへと変えることにあった。外部からのデータ、すなわちトランザクションを受け取ると、標準的アプリケーションプログラムが直接、統合データベースを更新するというデジタルならではの方法を取り入れたことである。
従来の実務は紙ベース、伝票が発生するとそれを記帳し、日計表、仕訳帳、勘定元帳を経て貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書などの財務レポート、さらに原価明細書を作成する。しかし、これらは転記という簿記会計がベースになっている。転記することは、確認しながら間違いなく集計できるようにという業務の知恵でもあったが、この流れに沿ってシステム化することは、締めを待たないとレポートが作成できないという時間遅れの問題を内包している。
ERPでは、ネットから注文を受けると在庫データを引き当てて更新し、また、製造や外注手配をすると同時に生産計画データを更新し、生産が完了すると、納入の手配をして、配送業者に集荷依頼が送られる。納入が完了し、検収が済むと、棚卸在庫は売掛金に移され、損益計算書の売上高と売上原価が計上される。同時に発注企業では、固定資産と買掛金が計上される。転記でなく同時更新である。
これによって、月次、日次、リアルタイム決算が可能になる。そこからさまざまな報告書作成や分析が行われ、詳細なデータが必要な時はドリルダウンによって、トランザクションデータに遡ることができる。つまり、従来のアナログ的業務フローのデジタル化ではなく、デジタルを主体とする業務の流れへと変えること、これがデジタル改革である。
中小企業の生産性が低いといわれて久しい。しかし企業内よりも、企業間での無駄な業務のやりとりが、中小企業にしわ寄せされているのであって、企業間業務がもっとつながれば、業務処理の迅速化、中小企業のみならず、サプライチェーン、さらに日本全体の大きな生産性向上につながる。
つながるデジタル化の基本原則、それは企業間での業務の自動化、データの同時更新、リアルタイムトランザクション処理にある。IFRS、(国際会計報告基準)に準拠すれば、企業間での業務の同期、とりわけ会計処理の同期、すなわち相互運用性である。例えば、発注処理は受注側での販売受注管理にデータ連動し、出荷処理は配送業者の集荷業務に連動する。売上計上の認識は、企業間での資産の同時移転、債権債務の同時更新にある。このような相互運用性の確保こそDX、いわばデジタル化の本旨である。
当然ながら、企業間の取引は契約に基づき、取引の実在性が客観的に担保され、accountability、auditabilityが確保されなければならない。すなわち、ある資産がどちらの企業にも計上されない期間があってはならない。
企業間のEDIが進まないとされる。B2Cと同じようにB2B においてEコマースのようなプラットフォームの登場が待たれる。その基本は発注企業ではなく、受注企業の視点である。キャッチボールのようにキャッチャーが受け取りやすいボールを投げる責任が発注企業にある。両社が実務のリポジトリーを作成して、AIが判断して、自動マッピング、自動転送を行う時代がそう遠くない。APIを介して発注・受注企業の各システムがデカップリング(分離)され、作業分担や費用負担の調整が最小限になる。これもDXである。
結局、改革とは
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(平家物語)。
輝かしく巨大なビジネスを達成しても急速に衰退する企業もあれば、小規模でも輝き続ける100年企業もある。経営戦略は多様で正解はない。
今、ネットを武器とする米国の巨大な企業が世界を席巻し、称賛と同時に脅威を与えている。国境や商習慣を乗り超え、さらなる投資を呼び込み、地球全体を飲みこむ勢いでもある。
かつて、大型スーパーが地元商店街を駆逐し、コンビニが流通市場を制覇するといわれた。しかし、実際には、各地で、各業態の特徴を生かした多様な店舗が競合している。どんなにグローバルな市場であっても決めるのはローカルにいる個人である。ネットで注文するのは便利ではあるが、時には店に行って商品に触れ、買い回るのを楽しみ、AIが商品を勧めることを余計なお世話だと感じることもある。ある時はみんなと同じものを好み、ある時はみんなと違ったものを買う気まぐれな人たちが消費者である。ひとつの業態、ひとつのサービスですべての顧客のニーズを満たせると考えるのは供給者のおごりでしかない。
成長している企業の経営戦略は右肩上がりの時には有効であっても、成長が止まった瞬間、ネットの時代ほど急速に下降に転じる。地域や個人に必要とされなければ、成長どころか存続さえも許されないことを優れた経営者は気付いている。戦略とは業務改革を包む単なる熨斗紙でしかない。成功が約束される戦略などあろうはずもない。
信長は天下一統を前に、自分の手でその野望を実現することはできなかった。改革を目指したものは、その野望を自分の目で見ることができないというのが歴史の真実なのかもしれない。
改革という言葉だけに浮かれている人たちも久しからず、今見ているドラマが、こう言っている。まず一歩踏み込む勇気が必要だ。その大きな要因として、デジタル、そしてテクノロジーに期待している。それがDXの真実となることを。
2020年11月26日木曜日
「アトキンソン」の中小企業再編論は有効か
菅政権の重要な政策として、炭素ゼロ社会、デジタル化と並んで中小企業の再編成があげられている。その背後には、新設された成長戦略会議の民間議員として、首相のブレーンである小西美術工藝社の社長デービッド・アトキンソン氏がいることはよく知られている。彼は、優れた経営者であるばかりでなく、ゴールドマン・サックス社のパートナーも経験した金融アナリストでもある。
しかし彼が語る中小企業再編への処方箋は様々な反響を呼んでいる。国のGDPは人口に正の相関があるので日本のように人口減少が続けばGDPの低下は避けられない。これを解決するには生産性向上、とりわけ労働生産性、なかでも中小企業の生産性が低いので、対策をとらなければならない。おそらくこの現状認識には異論はないだろう。
また、中小企業の生産性を悪化させている元凶が政府による手厚い保護政策と日本商工会議所をはじめとする商工団体の圧力にある。事業継続する意欲のない中小企業、事業が改善する見込みのない赤字垂れ流しのいわゆるゾンビ企業に財政的支援や補助金支援をすることで延命させている。このような企業は早く退出させることが、社会的に望ましいという。そういう実態がないとは言い切れないだろう。
しかし、本当に必要な企業に対してだけ助成し、ゾンビ企業を排除するために当該企業の状況を厳密に調査、審査して意思決定するには、多くの工数と期間がかかる。多少の厳密さを犠牲にしても迅速に支援すべきだと国会で批判するけれども、そうすれば悪意の企業が混入することは避けられない。迅速性と厳密性のどこかで、妥協するというのがまさに実務である。まさにガンの部位を正確に探し当てて、抗がん剤を投与するようなわけにはいかない。
もちろんデジタル化による解決策はある。会社からの申請書によるのではなく、企業の基本的データ、企業業績、財務状況、企業の行動データをリアルタイムに把握し、AIのアルゴリスムを駆使して分析すれば、本当に必要な企業を抽出することは決して困難ではない。さらに、一括でく、少額を迅速に補助し、その成果をデータで収集し、追加補助をするというプロセスを経ることで、より効果が上がる企業へ集中的な補助を可能にする。これはまさしくシステム開発におけるアジャイル手法でのイテレーション、すなわち短期間で反復を繰り返しながら、効果的な財政的支援を可能にする。高速でPDCAを回すことである。そのような提起なしに、ゾンビ企業排除を叫ぶのは、実効性に乏しい。
アトキンソン氏は、中小企業の生産性の低いのは、規模が小さいからであり、そのために、人材不足、財源不足、とりわけ合理化のためのIT投資への余力がないので生産性向上に取り組めないと述べる。したがって、まず規模を拡大して、余力を創出すべきで、それが困難な小規模企業には退出を求めるべきで、退出した労働力を中規模企業に振り向けることで、労働流動性が生まれると考える。そうすれば最低賃金をアップでき、それを支払えない企業は退出せざるを得ないと述べる。この処方箋に、ほとんどの中小企業関係者は反論するに違いない。
第1に、中小企業の生産性が低いとしても、その原因が規模の小ささにあるとは言えない。小さくとも高い利益率を確保している企業は少なくない。規模ではなくビジネスモデル、経営モデルの問題と考えるのが妥当だからである。いうまでもなく企業の99.7%は中小企業であり、75%の勤労者は中小企業に勤務し、GDPの約半分は中小企業であるという状況は、中小企業だけの経営の問題というよりも日本の産業構造の問題を示している。大企業は経営努力のみによって生産性が高いのではなく、中小企業の努力によって、さらに言えば、中小企業が非効率性を甘受しているからこそ、達成できている面が少なくない。
例えば、大企業の債務支払いが、手形など世界にもまれな制度によって、60日あるいは90日、さらに120日の長期にわたっていることは周知の事実である。インボイスによる即日支払いが世界の潮流であり、これを実施してこなかった日本の商習慣が中小企業の生産性を低下させている。むしろこの点をアトキンソン氏は忘れている。
近年のクラウドサービスでは、IT環境の整備はもはや先行的な投資ではなく、月数千円から数万円、さらに、無料のサービスから試行できる市場環境からすれば、多くの場合、身の丈、にあったIT化が現実化しいている現在、その大きな阻害要因は、経営者の認識不足以上に、リベートや複雑な税制など、発注企業の商習慣や制度、規制によることが大きい。もはや投資余力の有無によって生産性を議論すべきではない。
中小企業の生産性問題を、決して中小企業自体の経営問題に還元してはならない。オールジャパンで、デジタル化に向け経営者の背中を押すことこそ、不不可欠であろう。
第2に最低賃金を上げることが重要な処方箋だと述べることについては多くの反論がなされている。確かに、賃金を上げれば消費に周り、国のGDPを高め社員の意欲を高めることで、企業業績向上、企業の改革促進が期待できるという面があることは期待される。しかし、そこには成功確率と時間軸の議論が抜けている。うまくいっても、それは半年か数年先のことで在り、うまくいく可能性は必ずしも高くない。しかし月という時間軸で見れば、確実に資金が減少し、人件費の増加による経営圧迫は避けられない。それらを同列に見ることは適切とは言えないだろう。
第3に、優れた中小企業の規模拡大にむけ、再編を促し、それ以外の企業の退出を促すという思想は、優れた人間だけが残ればいい、偏差値の高い若者を育てようという選民主義に通じるものである。人間も企業も多様であって、とりわけほとんどが中小企業という地方自治体は少なくない。また、サプライチェーンの下請けであるとともに、地域社会の担い手であり、地域において重要な役割を期待されている中小企業は少なくない。郊外のモールによって、シャッター街になってしまい、暗くなり治安も悪化した駅前商店街は多い。地域においては黒字か赤字かではなく地域に根付いて貢献している中小企業が少なくない。切り捨てが及ぼす影響は、決して少なくない。黒字企業だけ残れば、あるいは黒字企業がより成長すればよいという考えは地方都市を疲弊させてしまう。まさしく私たちがとるべき方向は、赤字企業を切り捨てるのではなく一社でも多くの赤字企業を成長路線に乗せることにある。
第4は、中小企業を統合再編させる手段として中小企業同士あるいは大企業による吸収などを促すとする考え方であり、M&Aなどを推奨することにある。中小企業に対して、他の企業が、とりわけ事業承継が困難な場合に、他の企業の支援を受けて事業継続できることは有効な手段の一つであることは間違いない。それによって、重要な資源で社員や技術、ケイパビリティを維持できる意義は大きい。しかし、そこには統合再編がうまくいった場合という条件が付く。規模が異なる企業同士の合併吸収は、異なる企業文化、異なる社内システムの統合に伴うコストは予想以上に大きい。中小企業では、十分なデユーデリジェンス(企業査定)が行われないであろうし、大企業同士の合併に比べれば、事前準備、社内了解も不十分である。資本の論理だけではうまくいかない。
1+1が2を上回ることが、まさしく統合の利益である。しかし、2に満たず、1.7であるならば、0.3を切り捨てなければ、統合の利益は見込めない。これらの不利益は政府主導による多少の補助金でも解決しない。統合後のビジネスモデルが描けてなかったからである。そこに必要なのは、十分な支援である。
このようにアトキンソン氏の提起は、現状認識こそ同意できものの、その処方箋は具体性に乏しく役に立たない。もちろん、彼は疑いなく優れた経営者である。しかし名選手、必ずしも名コーチ、名監督とならないように、名経営者の経営方法がどの企業にも当てはまる保証はない。方法だけでなく、人心掌握、求心力も必要である。
日本の中小企業の支援機関、関係者たちの協力なしに、一歩たりとも実現しない。私たちが何よりすべきことは切り捨てでなく、一社でも成長路線に乗せるべく、支援を強化することにある。何より中小企業自身が気付き、企業同士が相互に学び合い、成長への経営者の意思決定、行動へ背中を押すことが必要である。
まさしく、菅総理が語る「自助」「共助」「公助」、なのである。