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2021年12月31日金曜日

「我が家のトップニュース」

今年3月末に、東京から富士山のふもとに移住しました。前々から田舎暮らしを考えていましたが、新型コロナ禍のテレワークが背中を押しました。幸運にも、すぐに入居できる中古のログハウスをネットで見つけ、都内の中古マンションの価格急騰で、ほぼ追加費用なく転居できました。

木々に囲まれ、健康的な生活、広い庭でガーデニングを楽しんでいる妻の姿が何よりです。お互いに助け合わないと生活できないことも痛感しました。

不便な点は多々あります。ATM、コンビニ、郵便局、スーパー、どれも歩いていけるところにないので、ネット通販を頻繁に使って買い物をし、たまに行く買い物もATMで現金を用意しないで済む電子マネーはとても助かります。雨でも、雪でも来ていただける宅配、郵便や新聞の配達の皆さんには、毎日感謝しています。本当にご苦労様です。

とはいえ、病院通いが不便です。大病院とかかりつけ病院、薬局に行ったり来たりしないといけないので、高齢化で運転できなくなったときのことを考えると不安になります。新しい技術を活用した地域の交通問題、できるだけ早い解決を願っています。


2021年9月14日火曜日

アフターコロナ、改革のなかの真実

 

 

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(方丈記)

 

あの時代もまた変化が激しかったに違いない。私たちはいつも、現代を激変と呼ぶ。技術の進歩、情報の氾濫、流行の移り変わり、どれをとっても変化の激しさを日々感じさせる。昔はもう少しのんびりしていたと懐かしむことも多い。

しかし、激変は現代に限らず、どの時代の人もそう感じたのかもしれない。歳を取るにしたがって、時間が早く過ぎ去っていくと感じるのも、自分の能力の衰えや、変化についていけないからに違いない。

私たちの子供の頃はビッグバンも大陸移動説なども教えられなかった。知識は変わりやすく、学ぶ意欲がなければ、すぐに時代に追いつけなくなり、古いといわれる。学ぶ意欲を持ち続けることが大事であることは、時代を超えて変わりない。腕のいい職人であっても、その技能を新しい環境に合わせて学ばなければ、その技能も間違いなく陳腐化し、伝統を守ることさえできない。伝統を守るということは、更新、さらにいえば、改革と同義なのかもしれない。

 

改革とはなんだ

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」では、日本資本主義の父とも呼ばれる主人公渋沢栄一が、幕府転覆という、まるでテロリストと見間違えるほどの過激な思想の持ち主であったことに驚かされる。思えば、吉田松陰でさえ、思想的にはテロリストを輩出する過激な思想家といってよく、その思想に忠実であった若者の多くが、若くして殺害され、明治維新という改革の夢を見ることはかなわなかった。

いつの時代も血気盛んな若者の、先頭に立って世の中を変えようとするエネルギーが改革の源泉なのかもしれない。同時にそれを利用しようと図る体制派や気まぐれな世論などが、社会的なムーブメントとなって初めて改革が実行されるのかもしれない。もちろん、桜田門外の変、五・一五事件、二・二六事件などのように、結果から見ても、若者の意欲がすべて正しかったとは言えないし、それが歴史を逆に回したことも事実であろう。

その後、開国に反対した幕末の志士たちが、渋沢栄一がそうであったように、現実主義として開国に転じ、明治維新後に政府の要職を務める。悲しいことに、若者が唱えた改革への野望は、最初にめざした形をとどめないほどに消費され、食い散らかされ、血を流し、初めて実を結ぶのかもしれない。

かつて1969年秋、自民党政府が倒れるのではないかという幻を、一瞬、見た気がする。しかし、倒れることなく、それを唱えた多くの若者は、現実に転じ、団塊の世代を構成し、現在なお、体制の主流をなしている。そして、あの時の過激なほど原理に忠実な若者の末路は悲惨であった。

いつの時代も改革を純粋に叫んでいる若者の末路に対して、煽った知識人、評論家、メディアはいつの間にか霧散する。それも、ひょっとすると、改革の真実なのだろうか。

その姿を2000年前後のITバブルにさえ見ることができる。ITベンチャーと、もてはやされて、起業し、失敗して離散、自らの命をたったものさえいるにも関わらず、ほとんどの煽った人たちは、何の手助けも出来なかった。私たちは、彼らの道筋を、もっとしっかりと支えるべきではなかったのか。

なぜ、改革は、初心を貫けないのだろうか、初心を貫いた若者の犠牲の上に現実に転じた勢力や、もともとの守旧派が主力となって、現実を変えていくというのはなぜだろうか。

 

改革はなぜ進まない

政府のコロナ対策としての協力金の支払いが、多くの申請を人が確認しているために、対処できず、遅々として進まないと聞く。国民に定額特別給付金を支給する際も、国と地方自治体が管理するデータの齟齬によって、多くの時間と手作業を必要とした。

地方自治体がワクチン接種を進めている間に、政府が集中センターを作り接種を加速する、という。政治的判断ではあるが、データの一元的な管理、とりわけ、誰がどこで接種したかの実績情報の迅速な把握はほぼ困難になるだろう。十分な議論なしに実施すれば、このようなことが起こるのは明らかである。強行なしには改革が前に進まないのも現実であるが、デジタル化を阻害する加害者は、このようなデータに関する基本的な理解不足なのかもしれない。

今や、改革の大合唱である。保守であるはずの自民党内閣でさえ、改革を唱えているほどである。それなのに、改革は一向に進んでいないと多くの人は嘆く。こんなに、国民の多くの賛同を得ているならば、改革が進んで当然ではないだろうか、民主主義の時代に、選挙で選ばれる議員も、例外なく、今のままでいいとは言わず、改革を唱える、その人たちが選ばれているにも関わらず、改革は進まないとすれば、何かおかしくないだろうか。

改革したいのか、本当は改革したくないのか、あるいは個人は改革好きだけれども、その集合体である組織や社会は改革を望んでいないのだろうか。経営環境、経済環境、技術革新など、すべてが、激変、変化が激しいと語られているのに、社会が変わらないというのは、なぜだろうか。

電車に乗っているとき、隣に来た電車が動いていれば、止まっているように感じるし、逆にこちらが止まっていれば後ろに動いているような錯覚に陥る。環境と一緒に変わっているのであれば、人の目には変わっていないようにも見える。変わっているけれども、変わっていないと思っているのは、錯覚なのかもしれない。社会も制度もとっくに変わっているのにも関わらず、改革を唱えるのは、自分が動かないので、周りの激変に遅れていると思い、焦っているのかもしれない。守旧の人ほど改革を口にする理由がそこにありそうだ。いまだに改革を邪魔している加害者の存在は見えてこない。みんな被害者を装っているかのようだ。

改革という響きに、自分は何かをしているかのような心地よさ、安心感、安ど感があるとするならば、いわば、改革を口にすることで改革の側にいることを装える自己満足感、自分の身の保全と安住を図っているとも思える。いわば改革という名の保守、まさに逆説的な帰結なのかもしれない。

 

DXは改革に値するのか

DXにおいても、メディアが持ち上げ、数年後に失敗したと捨て去る、といういつものプロセスが繰り返されるかもしれない。IMSSISBPRと、これまでもそういわれ続けてきた。しかし、私たちはメディアに振り回されるだけなのだろうか。言葉の流行が終わって何も残らなかった、とも言われるが、その中から確実に成果を作ってきたことも間違いない。

例えば、IMSでは、当時のコンピュータへの期待が強すぎてそれを処理できる能力が、まだ備わっていなかったと総括されることが多い。しかし、実際には汎用コンピュータの登場によって、磁気ディスクの技術をもとに、ファイル構造の改革、トランザクション処理、オンライン化への基礎固めを行うことによって、銀行オンライン、在庫を中心とした生産管理、新聞製作へのCTS化など、利用上のまれに見る大きな発展を遂げた。

SISにおいても、企業の経営戦略とIT戦略の整合性という課題に取り組みながら、商品戦略、販売戦略に情報を活用する大きな発展を遂げた。さらに、BPRでは、従来業務をそのままシステム化するのではなく、業務の根本的な見直しを提起し、大きな賛同と事例を作り出したことも事実である。

デジタルトランスフォーメーション、すなわちDXもまた、バズワードと批判されようが、そこには間違いなくコロナ禍での体験からデジタルで改革したいというニーズの最大公約数的な役割を果たしている。もはや、カイゼン、リエンジニアリング、リストラクチャイングとどう違うのかと問うことはほとんど意味がない。

IMSSISBPR3文字群は使い捨てられたかもしれないが、それを経由して、現実的な解を作り出し、着実に成果を作ってきたことも、一つの真実には違いない。DXも、数年後には忘れ去られるかもしれないが、進化をもたらすことは期待してよい。それがおそらくDXの真実となるはずであり、その意義を追求することを怠ってはいけない。最後に残るものに真実があるとして、さて、そのDXの真実とは何だろうか。

  

DXの後に残されるもの

今後、DXという言葉が霧散した後、何が成果として残るだろうか。すでにほとんどの企業や組織ではパソコンを導入しワープロ、表計算などのオフィスツールを活用し、インターネットにつないでメールやブラウザーによる情報交換、情報収集を実施するなど、実は、相当程度、日常生活、日常業務にデジタル技術は浸透している。それらの既存のデジタルの仕組み、さらにデジタルデータ間をつなぐことがDXの重要なテーマであるとされる。

もちろん、今でも業務上はつながっている。しかし、手作業によってである。オンライン申請であっても印刷してその内容を確認してクリックするのは、デジタル結合ではない。申請データをプログラムが自動チェックして、必要な時にだけ人の介入を要請する、それがデジタル結合である。

さて、デジタルトランスフォーメーションとは何を意味するのだろうか。字句通りに解釈すれば、フォーム、つまり形を、トランスフォーム、つまり変える、ことであるが、トランスには、さらに、ある状態から別の状態に移る、転じる、横切って、超越して、という意味が含まれている。

 また、トランスが付く用語にトランザクションがある。トランザクションは一般に取引と訳されることが多いが、tradedealとは異なり、外部との間で処理することを意味している。すなわちDXには、分散されている様々な組織、機能、データをデジタルでつなぐことが期待されているとも思える。

 企業活動を要約すれば、外部から調達して、付加価値をつけて外部に販売する、つまり、ビジネスとは、外部からトランザクションに始まり、外部へのトランザクションに終わるといってよい。A社のアウトプットはB社のインプットであり、A社から部品が発注されれば、そのデータはB社に注文データとして伝送され、在庫を検索し、なければ製造手配をして、工場の製造日程などを勘案した納期回答をA社に送る。これらの一連の流れに、少なくても人が関与する必要はない。これまで、社内の業務効率化が追求されてきたが、最も無駄が多いのは、このような企業間でのやり取りである。

私たちは、1990年代末のERPの登場の意義をいまだに理解していないのかもしれない。その最大の意義は、アナログ的な業務処理を、デジタルを主体とする業務の流れへと変えることにあった。外部からのデータ、すなわちトランザクションを受け取ると、標準的アプリケーションプログラムが直接、統合データベースを更新するというデジタルならではの方法を取り入れたことである。

従来の実務は紙ベース、伝票が発生するとそれを記帳し、日計表、仕訳帳、勘定元帳を経て貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書などの財務レポート、さらに原価明細書を作成する。しかし、これらは転記という簿記会計がベースになっている。転記することは、確認しながら間違いなく集計できるようにという業務の知恵でもあったが、この流れに沿ってシステム化することは、締めを待たないとレポートが作成できないという時間遅れの問題を内包している。

ERPでは、ネットから注文を受けると在庫データを引き当てて更新し、また、製造や外注手配をすると同時に生産計画データを更新し、生産が完了すると、納入の手配をして、配送業者に集荷依頼が送られる。納入が完了し、検収が済むと、棚卸在庫は売掛金に移され、損益計算書の売上高と売上原価が計上される。同時に発注企業では、固定資産と買掛金が計上される。転記でなく同時更新である。

これによって、月次、日次、リアルタイム決算が可能になる。そこからさまざまな報告書作成や分析が行われ、詳細なデータが必要な時はドリルダウンによって、トランザクションデータに遡ることができる。つまり、従来のアナログ的業務フローのデジタル化ではなく、デジタルを主体とする業務の流れへと変えること、これがデジタル改革である。

中小企業の生産性が低いといわれて久しい。しかし企業内よりも、企業間での無駄な業務のやりとりが、中小企業にしわ寄せされているのであって、企業間業務がもっとつながれば、業務処理の迅速化、中小企業のみならず、サプライチェーン、さらに日本全体の大きな生産性向上につながる。

つながるデジタル化の基本原則、それは企業間での業務の自動化、データの同時更新、リアルタイムトランザクション処理にある。IFRS、(国際会計報告基準)に準拠すれば、企業間での業務の同期、とりわけ会計処理の同期、すなわち相互運用性である。例えば、発注処理は受注側での販売受注管理にデータ連動し、出荷処理は配送業者の集荷業務に連動する。売上計上の認識は、企業間での資産の同時移転、債権債務の同時更新にある。このような相互運用性の確保こそDX、いわばデジタル化の本旨である。

当然ながら、企業間の取引は契約に基づき、取引の実在性が客観的に担保され、accountabilityauditabilityが確保されなければならない。すなわち、ある資産がどちらの企業にも計上されない期間があってはならない。

企業間のEDIが進まないとされる。B2Cと同じようにB2B においてEコマースのようなプラットフォームの登場が待たれる。その基本は発注企業ではなく、受注企業の視点である。キャッチボールのようにキャッチャーが受け取りやすいボールを投げる責任が発注企業にある。両社が実務のリポジトリーを作成して、AIが判断して、自動マッピング、自動転送を行う時代がそう遠くない。APIを介して発注・受注企業の各システムがデカップリング(分離)され、作業分担や費用負担の調整が最小限になる。これもDXである。

 

結局、改革とは

 

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(平家物語)。

 

輝かしく巨大なビジネスを達成しても急速に衰退する企業もあれば、小規模でも輝き続ける100年企業もある。経営戦略は多様で正解はない。

今、ネットを武器とする米国の巨大な企業が世界を席巻し、称賛と同時に脅威を与えている。国境や商習慣を乗り超え、さらなる投資を呼び込み、地球全体を飲みこむ勢いでもある。

かつて、大型スーパーが地元商店街を駆逐し、コンビニが流通市場を制覇するといわれた。しかし、実際には、各地で、各業態の特徴を生かした多様な店舗が競合している。どんなにグローバルな市場であっても決めるのはローカルにいる個人である。ネットで注文するのは便利ではあるが、時には店に行って商品に触れ、買い回るのを楽しみ、AIが商品を勧めることを余計なお世話だと感じることもある。ある時はみんなと同じものを好み、ある時はみんなと違ったものを買う気まぐれな人たちが消費者である。ひとつの業態、ひとつのサービスですべての顧客のニーズを満たせると考えるのは供給者のおごりでしかない。

成長している企業の経営戦略は右肩上がりの時には有効であっても、成長が止まった瞬間、ネットの時代ほど急速に下降に転じる。地域や個人に必要とされなければ、成長どころか存続さえも許されないことを優れた経営者は気付いている。戦略とは業務改革を包む単なる熨斗紙でしかない。成功が約束される戦略などあろうはずもない。

信長は天下一統を前に、自分の手でその野望を実現することはできなかった。改革を目指したものは、その野望を自分の目で見ることができないというのが歴史の真実なのかもしれない。

改革という言葉だけに浮かれている人たちも久しからず、今見ているドラマが、こう言っている。まず一歩踏み込む勇気が必要だ。その大きな要因として、デジタル、そしてテクノロジーに期待している。それがDXの真実となることを。

 

 

 

 

2020年11月26日木曜日

「アトキンソン」の中小企業再編論は有効か

 菅政権の重要な政策として、炭素ゼロ社会、デジタル化と並んで中小企業の再編成があげられている。その背後には、新設された成長戦略会議の民間議員として、首相のブレーンである小西美術工藝社の社長デービッド・アトキンソン氏がいることはよく知られている。彼は、優れた経営者であるばかりでなく、ゴールドマン・サックス社のパートナーも経験した金融アナリストでもある。

 しかし彼が語る中小企業再編への処方箋は様々な反響を呼んでいる。国のGDPは人口に正の相関があるので日本のように人口減少が続けばGDPの低下は避けられない。これを解決するには生産性向上、とりわけ労働生産性、なかでも中小企業の生産性が低いので、対策をとらなければならない。おそらくこの現状認識には異論はないだろう。

 また、中小企業の生産性を悪化させている元凶が政府による手厚い保護政策と日本商工会議所をはじめとする商工団体の圧力にある。事業継続する意欲のない中小企業、事業が改善する見込みのない赤字垂れ流しのいわゆるゾンビ企業に財政的支援や補助金支援をすることで延命させている。このような企業は早く退出させることが、社会的に望ましいという。そういう実態がないとは言い切れないだろう。

しかし、本当に必要な企業に対してだけ助成し、ゾンビ企業を排除するために当該企業の状況を厳密に調査、審査して意思決定するには、多くの工数と期間がかかる。多少の厳密さを犠牲にしても迅速に支援すべきだと国会で批判するけれども、そうすれば悪意の企業が混入することは避けられない。迅速性と厳密性のどこかで、妥協するというのがまさに実務である。まさにガンの部位を正確に探し当てて、抗がん剤を投与するようなわけにはいかない。

もちろんデジタル化による解決策はある。会社からの申請書によるのではなく、企業の基本的データ、企業業績、財務状況、企業の行動データをリアルタイムに把握し、AIのアルゴリスムを駆使して分析すれば、本当に必要な企業を抽出することは決して困難ではない。さらに、一括でく、少額を迅速に補助し、その成果をデータで収集し、追加補助をするというプロセスを経ることで、より効果が上がる企業へ集中的な補助を可能にする。これはまさしくシステム開発におけるアジャイル手法でのイテレーション、すなわち短期間で反復を繰り返しながら、効果的な財政的支援を可能にする。高速でPDCAを回すことである。そのような提起なしに、ゾンビ企業排除を叫ぶのは、実効性に乏しい。

 アトキンソン氏は、中小企業の生産性の低いのは、規模が小さいからであり、そのために、人材不足、財源不足、とりわけ合理化のためのIT投資への余力がないので生産性向上に取り組めないと述べる。したがって、まず規模を拡大して、余力を創出すべきで、それが困難な小規模企業には退出を求めるべきで、退出した労働力を中規模企業に振り向けることで、労働流動性が生まれると考える。そうすれば最低賃金をアップでき、それを支払えない企業は退出せざるを得ないと述べる。この処方箋に、ほとんどの中小企業関係者は反論するに違いない。

1に、中小企業の生産性が低いとしても、その原因が規模の小ささにあるとは言えない。小さくとも高い利益率を確保している企業は少なくない。規模ではなくビジネスモデル、経営モデルの問題と考えるのが妥当だからである。いうまでもなく企業の99.7%は中小企業であり、75%の勤労者は中小企業に勤務し、GDPの約半分は中小企業であるという状況は、中小企業だけの経営の問題というよりも日本の産業構造の問題を示している。大企業は経営努力のみによって生産性が高いのではなく、中小企業の努力によって、さらに言えば、中小企業が非効率性を甘受しているからこそ、達成できている面が少なくない。

例えば、大企業の債務支払いが、手形など世界にもまれな制度によって、60日あるいは90日、さらに120日の長期にわたっていることは周知の事実である。インボイスによる即日支払いが世界の潮流であり、これを実施してこなかった日本の商習慣が中小企業の生産性を低下させている。むしろこの点をアトキンソン氏は忘れている。

近年のクラウドサービスでは、IT環境の整備はもはや先行的な投資ではなく、月数千円から数万円、さらに、無料のサービスから試行できる市場環境からすれば、多くの場合、身の丈、にあったIT化が現実化しいている現在、その大きな阻害要因は、経営者の認識不足以上に、リベートや複雑な税制など、発注企業の商習慣や制度、規制によることが大きい。もはや投資余力の有無によって生産性を議論すべきではない。

中小企業の生産性問題を、決して中小企業自体の経営問題に還元してはならない。オールジャパンで、デジタル化に向け経営者の背中を押すことこそ、不不可欠であろう。

2に最低賃金を上げることが重要な処方箋だと述べることについては多くの反論がなされている。確かに、賃金を上げれば消費に周り、国のGDPを高め社員の意欲を高めることで、企業業績向上、企業の改革促進が期待できるという面があることは期待される。しかし、そこには成功確率と時間軸の議論が抜けている。うまくいっても、それは半年か数年先のことで在り、うまくいく可能性は必ずしも高くない。しかし月という時間軸で見れば、確実に資金が減少し、人件費の増加による経営圧迫は避けられない。それらを同列に見ることは適切とは言えないだろう。

3に、優れた中小企業の規模拡大にむけ、再編を促し、それ以外の企業の退出を促すという思想は、優れた人間だけが残ればいい、偏差値の高い若者を育てようという選民主義に通じるものである。人間も企業も多様であって、とりわけほとんどが中小企業という地方自治体は少なくない。また、サプライチェーンの下請けであるとともに、地域社会の担い手であり、地域において重要な役割を期待されている中小企業は少なくない。郊外のモールによって、シャッター街になってしまい、暗くなり治安も悪化した駅前商店街は多い。地域においては黒字か赤字かではなく地域に根付いて貢献している中小企業が少なくない。切り捨てが及ぼす影響は、決して少なくない。黒字企業だけ残れば、あるいは黒字企業がより成長すればよいという考えは地方都市を疲弊させてしまう。まさしく私たちがとるべき方向は、赤字企業を切り捨てるのではなく一社でも多くの赤字企業を成長路線に乗せることにある。

4は、中小企業を統合再編させる手段として中小企業同士あるいは大企業による吸収などを促すとする考え方であり、M&Aなどを推奨することにある。中小企業に対して、他の企業が、とりわけ事業承継が困難な場合に、他の企業の支援を受けて事業継続できることは有効な手段の一つであることは間違いない。それによって、重要な資源で社員や技術、ケイパビリティを維持できる意義は大きい。しかし、そこには統合再編がうまくいった場合という条件が付く。規模が異なる企業同士の合併吸収は、異なる企業文化、異なる社内システムの統合に伴うコストは予想以上に大きい。中小企業では、十分なデユーデリジェンス(企業査定)が行われないであろうし、大企業同士の合併に比べれば、事前準備、社内了解も不十分である。資本の論理だけではうまくいかない。

1+1が2を上回ることが、まさしく統合の利益である。しかし、2に満たず、1.7であるならば、0.3を切り捨てなければ、統合の利益は見込めない。これらの不利益は政府主導による多少の補助金でも解決しない。統合後のビジネスモデルが描けてなかったからである。そこに必要なのは、十分な支援である。

このようにアトキンソン氏の提起は、現状認識こそ同意できものの、その処方箋は具体性に乏しく役に立たない。もちろん、彼は疑いなく優れた経営者である。しかし名選手、必ずしも名コーチ、名監督とならないように、名経営者の経営方法がどの企業にも当てはまる保証はない。方法だけでなく、人心掌握、求心力も必要である。

日本の中小企業の支援機関、関係者たちの協力なしに、一歩たりとも実現しない。私たちが何よりすべきことは切り捨てでなく、一社でも成長路線に乗せるべく、支援を強化することにある。何より中小企業自身が気付き、企業同士が相互に学び合い、成長への経営者の意思決定、行動へ背中を押すことが必要である。

まさしく、菅総理が語る「自助」「共助」「公助」、なのである。

 

2020年8月22日土曜日

「未来への大分岐」を読んで

 

今を時めく「帝国」の著者マイケルハート、「ポスト資本主義」のポールメイソン、そして「私は脳ではない」、「なぜ世界は存在しないのか」のマルクスガブリエルとの対談集、3人の著書を要約する感じで、非常にわかりやすい。

私は、前々からマルクスガブリエルに関心をもって読んできたので、解説を聞くような楽しさがあった。彼が提唱しているのは、いわゆる新実在論、どこがこれまでの哲学と違うのだろうか。

いわば古典的思想では、キリスト教が絶対真実であり、経典に真実が書かれているとされた。しかしそれを変えたのは、ルネッサンス、グーテンベルグの印刷技術、科学革命、産業革命、いわばまさしく近代とは、真実は客観的で唯一であり、心理の探求によって客観的真実に到達する。それは百科事典に記載される。

それに対して、ポスト近代の主張は、例えば、科学革命の構造に未利用に、真実は、思想を同じにする社会的グループによって構成される、いわば客観的な真実は存在せず、相対的ななものであると、してきた。いわば、公害、地球温暖化など、これまでの科学の弊害を述べて、近代を批判した。

しかし、では、真実はすべて、社会的に構成されるならば、共通なものはないのか、。

カント風に言えば、もの自体は不可知、疑っても疑えない真実がある、超越的、先見的知識があるとする、そこに人間に共通な倫理があるとする。


2020年7月18日土曜日

「アフターコロナ社会、雨の日に、軒先を貸す」

 ある日の朝のこと、バスを待っていたら、雨が降ってきたので、停留所そばの花屋の軒先に移動し、雨宿りをした。少ししたら店内から人が来て、「何をしているんですか、困るんですけど」、といわれたので、開店前なのに、迷惑だろうか、と思いつつ、軒先から外へ出た。

さて、私が軒先にいたことが、店の損失になったのだろうか。おそらくはどこのだれかわからない者が、店のそばにいることが不愉快だったに違いない。しかし、親切なお店だと思われるのも得だと思えるが、そうは考えなかったのだろう。

私たちは、自分の利益を中心に考えるのを利己的、自己の損失を顧みずに他人の利益を図るような行動のことを利他的と呼んでいる。人類は、他の動物以上に、利他的、とりわけ家族というグループを大切にすることで、ここまで生き延びることができたといわれる。もちろん、自分の利益を無視してまで、あるいは自分を犠牲にしてまで、他人を利する行為を行う必要があるのか、という疑問もあるし、自国ファーストを標榜するリーダーが選挙で勝利するなど、その傾向は増殖している。現代でも、利他的行為がすべてのケースで有利とは限らない。 

反省だけなら

今回の新型コロナ問題から、まさしく、平時における、緊急時への備えの大切さについて、私たちは、多くの反省と学びを得た。例えば、社会、産業も、医療業務従事者に多くの負担をかけていることを再認識した。それに伴って、医療に対するこれまでの意識も変化せざるを得なくなった。触診、聴診器に頼る診察から、PCRのような検査重視への意識変化である。さらに、機器だけではなく人手不足、自動化が進んでいないことも明らかになった。いわゆる医療体制である。医療現場でのロボットや自動化機器の利用はなかなか進んでおらず、かつて、原発事故でも使えなかったように、技術革新の成果が医療現場に使えていないことも分かった。今の科学技術に足りないところがあるということなのだろうか。

また、今回の医療をめぐって様々な数値が百出した。検査人数、検査回数、感染者数、接触率、死亡者数などである。その数値の増減が、緊急事態宣言、そして解除までの多くの意思決定に大きな影響を与えている。しかし、その根拠をたどることなく、独り歩きしている現状において、当然ながらそれらの数値への疑問も出てくる。専門家たちが作ったモデルによれば、こういうことが言える、という前提をはるかに超え、政策を過剰にリードしている。統計モデルへの過信をさけるために、モデルは常に実態に合わせて、検証、見直しがなされねばならないはずである。

「現状は人との接触8割削減が実現した場合に想定される感染者数の減少には至っていない」、つまり接触という指標は結果から類推しているのであって、測定しているのではない。接触8割削減は、目標ではなく手段なのである。当初モデルが正しいかどうかの検証もなしに語られ続けており、モデルの押し付けは、科学の押し付けに見える。そんなに科学は、とりわけ統計モデルは絶対ではないはずである。専門家はもっと真理に謙虚であってほしい。

また、給付金のオンライン申請が可能になったが、その先には、地方自治体の人手作業の負担が増大するなど、これまでのデジタル化への取り組みが不十分であったことがあからさまになった。「本サービスで特別定額給付金のオンライン申請が可能となりました。準備のととのった市町村より順次受付を開始しています。」と表示され、これが、市町村ごとにネット申請を受け付けていることを示している。しかしマイナポータルは総務省のサービスであって、そこには住民のデータがない。それは地方自治体のものだからである。国が実施すべき共通サービスと、地方自治体による住民データの管理とをつなげる考えが今の地方分権では、存在しないことがわかる。

今、マイナンバーに口座番号を紐づけしようとしている。一見、これで迅速に給付ができそうに見えるが、しかし、それはありえない。マイナンバーデータには、世帯データも、収入、課税データも、年齢もなく、申請の妥当性を判断できるはずはない。結局、地方自治体が、手作業で、住基データと申請とを照合しなければならない。そんなこともわからず法案だけ作っている。

3密をさけるため、テレワークが推奨されたが、とりわけ多くの中小企業では実施できていないといわれる。テレビ会議はできても、在宅勤務、つまり会社に行かなくても仕事をするには様々な課題があり、その準備ができていないからである。まさしくテレワークとは、会社にいかなくてもよい経営管理であり、これを目指すことが経営改善につながる。

製造業では、しばしば、ものづくりの現場があるから、テレワークができないといわれる。確かに私たちは現場に行け、現場に行けば、現状と改善点がわかると教えられてきた。現場に行かずに現場をわかるというのは、禁句でさえあった。現場に行かなくても、改善ができ、ものづくりが進むなど、ありえるのだろうか。

たとえば、IoTで現場が見える、3Dプリンターでモノが作れる、ロボットでモノを運べる、 人工知能でモノが検査できる、配送業者に出荷指示ができ、電子インボイスで納品請求、決済ができる、まさに見える化とは、デジタル化とは、それこそテレワークと同義ではないだろうか。このようにテレワーク工場は次の目標となってきた。

3.11の後にBCPが普及したが、同じように、平時における備えとして、テレワーク計画(TWPTele-Work Planning)の作成が重要であるに違いない。中小企業では、デジタル技術を活用した業務自動化、テレワーク経営の実践が目前になってきた。

アナログファーストで、デジタル化を本気で取り組んでこなかったつけが、今、起こっている。野党が、早く配れというのであれば、その前に、デジタルファーストを言わなくてはならない。単なる竹槍精神では、武器なしにいくさに行けと言っているようなものである。

次に来る電子インボイス、これを竹槍で行なってはいけない。システム、つまり仕組みつくりが必要なのである。電子インボイスの実施によって、緊急時には、国が即日、買い取りをし、早く入金が可能になるようにすればよい。電子インボイスの意義が幅広く理解されるに違いない。 

数字はどこから

さて、今回提示されている数多くの数値は、どう測定されたものなのかという重大な振り返りも求められている。数値データを収集することは、IoTの基本であるが、発生時に一回、できれば自動的かつリアルタイムにデータを収集することが望ましいことは言うまでもない。

たとえば、東京都が陽性率を、初めて発表したという。つまりそれまで検査人数を正確には把握していなかったのである。国会であれだけ、日本の検査数が少ないと、野党から批判され続け、増やせと言われてきたにもかかわらず、正確でないデータで議論されてきたのである。

さらに、陽性率7.5%、これをどう読むかは、次の重要なテーマである。当然、検査数が多ければ率は低くなり、少なければ高くなる。低いことがよいのだろうか。高いことは悪いことなのだろうか。日本では、感染の疑いのある人を優先して検査してきたため、陽性率が高いことが推測される。しかし、これが医療崩壊を防ぎ、現場の効率につながってきたといわれている。

さらに、率の高低の問題以上に、それをどう読むか、どう意思決定に関係づけるのかという分析と意思決定のモデルが大事である。それがないのに、数値の増減だけで大騒ぎするのは、ワイドショーの安易なコメンテータレベルの誤解を導く。

感染者数に注目が集まっているが、4月中ころから金曜に多くなり、土日が少ないことが指摘されていた。休日前に検査が集中するのか、あるいは、検査してから結果がわかるのが数日とすると、結果を報告するのが金曜日に集中して、土日が少ないのかもしれない。つまり日ごとの感染者数とは、その日に感染した人数を測定したものではなく、その日に感染が確認された数であり、その数の増減が感染の最新状況を正しく表しているとは言えない。おそらく、週での移動平均、つまり週単位での平均の推移をみなければ、妥当な状況を把握できないであろう。

IoTでいえば、だれが、どのようにして、データを測定し、だれがそれを加工、変換して別の数値を作り、そして誰が何の目的で、評価するかについて確認しなければ、そこに数字があったとしても、実態の見える化など、できない。

万歩計を取ればわかりやすい。測定しているのは、歩数ではなく、加速度センサーの上下回数をカウントして歩数とし、歩幅から距離を計算し、体重、身長から消費カロリーを計算している。測定した元データと、それをもとに計算した数値を区別して考えなければならない。

さて、野球でよく用いられるスピードガン、テニスでも使われている。時速150kmというが、あれは何を測定しているのだろうか。速度を測っているように見えるが、速度はどのように測定できるのだろうか。知られているドップラー効果、つまり走っている列車からの汽笛が、自分に向かっているときと、離れているときでは、音が異なって聞こえる、この現象を応用して、スピードガンから発射された電波と反射した電波の波長を測り、ボールが短時間に移動した距離と時間を算定し、速度を計算しているのである。つまり測っているのは速度ではなく、波長である。

問題はその時間である。短時間とは、はたしてどういう時間なのか。時速とは、移動した距離を、かかった時間で割り算したものである。1時間とか1分とか1秒間に移動した距離を割ったものであるから、それは平均速度でしかない。しかし、車で走っているとき、知りたいのは過去の平均時速でなく、その時の速度である。つまりできるかぎり、今、どれだけ早く動いたか、を知りたいのであるが、その時間はゼロであってはいけない。ゼロを分母にしたら割り切れないからである。

そこで考案されたのが、「限りなくゼロに近い値」、という、架空の数値の概念である。これが、多くの学生が数学でつまずく微分、つまり微(かす)かに分ける、につながる。限りなく短い時間を想定してその時間に動いた距離として速度の理論化を図ったのである。

ニュートンは、リンゴが落ちているのを見て重力を発見したわけではない。当時の数学者は、この「限りなくゼロに近い値」にチャレンジした。言うところの法線、接線問題である。再度、IoTでは私たちは何を測っているのか、測ろうとしているのか、それをどう加工しているのか、を、確認しなければならない。

日本がこの新型コロナ禍にあって、感染者数、死亡者数が、世界の水準から2桁近く少ない数字であることに世界が驚き、奇跡だといっている。何がうまくいったからだ、という膨大な説明がこれから登場するであろう。

Washington-postは、social pressureと表現した。それをある放送局は「横並び意識」と訳した。かなり意訳ではあるが、海外からはそう見えているとことも一抹の真理かもしれない。社会のありように関わるとすると、自粛することは、他人に迷惑をかけない、特に、今回は、感染しているかどうかわからない人が多くいるなかで、感染することよりも感染させてはいけない、という意識も働いているのかもしれない。まさにマスクの効果はうつさないことにあるようだ。ここには、自分さえよれければいい、ではない意識、利他的行為を示しているように見える。 

身の丈テクノロジー

今、まさに、このコロナ禍によって、近代の枠組みが大きな疑念を持たれ始めているといってもよいだろう。思えば、社会の大きな変化は災害によってもたらされてきた、というのは歴史の真理かもしれない。遷都は、多くの場合、異常気象、災害、伝染病などによる社会的な不安を解消するための政策であったことが多い。

科学技術も新たな段階にきているかもしれない。14世紀のペストの蔓延によって、それまでの教会を中心とした体制、科学の刷新が求められ、近代社会、近代科学への移行が促されたという。当然ながら、数千万人の死亡を前にして、既成の教会権力が、ペストに無力であり、その権威が失墜したことは想像に難くない。

今の近代科学が限界にきているという指摘は多い。例えば、システムの巨大化、複雑化である。原子力発電所の事故に見るように、各コンポネントが複雑に絡み合い、全体を俯瞰できる重要な役割を担える人材は少ない。また、長期の運用になれば、担当者の異動、退職に伴い、その情報の継承が円滑にいくとは限らず、散逸することは避けられない。ひとたび事故が起これば、最後は一人の英知に頼らざるを得ず、巨大化がネックになってしまう。

原発に限らない。日常生活でも、たとえば、キャッシュレスの複雑さに多くの人がとまどっている。問題は、もはや技術の話ではない。ペイペイで支払おうとして、店舗のPOSレジのQRで読み取ることはたやすいが、残高がなくなれば、クレジットカードから自動的にチャージされ、数か月後に銀行から引き落とされる。その間に、複雑なシステムを経由しているに違いない。さらに、ポイントが付与され、5%ポイント還元なども含め、電子マネー、クレジットカード、ポイントと重層的に関係システムを横断する。ポイントの残額を調べるだけでも、結構手間であり、ポイントを使いたいと思っても、方法が複雑で、結局、期限切れになってしまうことも多い。その間、いわば100円の支払いであっても、この取引データは、世界中のネットワークを駆け巡る。

ある日、そのどこかで、情報の漏洩があっても、また、取引がエラーになったとしても、それがなぜ起こったのか、どこで起こったのか、その原因を探ることは、もはや個人の能力、知識をはるかに超える。しかも、個人がこれらの仕組みを利用する際に最も多く遭遇するのは、IDやパスワード忘れという極めて単純な問題である。複雑さが間違いなく個人の管理可能レベルを超えているからに違いない。

また、最近の住宅ではデジタル家電が増えてきた。デジタルとことさら言わなくてもテレビには、これまでの放送局のテレビ番組だけではなく、ケーブルテレビ、有料のネットテレビ、さらにパソコンのモニター、そして、録画予約など、かなり接続が複雑になり、障害が起こったとき、普通の人では解決不能になる。その際に、サービスセンターに電話やメールで状況を伝え、修理を依頼するが、その説明たるや、場合によっては何時間もかかってしまう。状況を的確に説明することすらできないのが、家庭内デジタル化の現状である。多くの人が、自分で管理可能な身の丈に合った技術を求めていることは間違いない。 

どこへ

近代化は、市民、さらに個人の権利を極大化し、個人の利益を優先することを目指した。いわば社会と個人とのデカップリング、すなわち切り離すことにかなり成功した。しいて言えば、そこに理論的な根拠を与えたのが、原因と結果を関係づけるのに寄与した近代科学の役割であったのかもしれない。しかし、社会とは、人と人の交流のことであり、自分さえよければではなく、人のために相互に何かをしあうことが社会の基本概念であり、デカプリングとはその意味では、明らかに矛盾する。

軒先を貸す程度の利他的行動は、自分には、何も害もなく、自己犠牲を強いることでもない。それでも嫌がるのはなぜか。私有、たとえば、領地を基礎に人と経済を支配する封建社会から、個人の土地所有によって、個人を基礎とする市民社会、資本主義の登場が、個人の利益を擁護し、最大化することを助長した。科学も技術も産業も、である。それが格差を生んだことも間違いない。

しかし、利益には、常に後ろめたさが付きまとう。なぜ、お前だけ儲けることができたのか、悪いことをしたのではないかと、その言い訳に、多くの学者が付き合ってきた。アダムスミスは、『諸国民の富』で、市民社会の到来、貿易からの利益、工業からの利益、を新しい社会の到来として、評価した。マックスウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、利益を再投資するという禁欲的な利益の使い方が、さらなる世界の成長に資するとして、経営者の利益を擁護した。

その時代の終焉はすでに、この50年来、言われつづけてきたが、それを、このコロナ禍が決定づけたとする意見もある。土地所有は、封建社会から近代国家に移る際の重要な資金源であったが、しかし、それが、今や国を縛っている。人と人は、私有ではなく信頼に基づいて再構成されるようになったからである。私有財産は信頼される社会的関係においてのみ略奪されることなく、安心して所有することが許されるからである。さらに、情報公開は、信頼の証しでもある。個人の利益ではなく社会の利益のために、情報を提供する。典型的な利他的行動である。

「軒先を貸す」という言葉は、そのあとに、「母屋を取られる」と続く。つまり一見、利他的な行為が、個人の利益、つまり所有されることへの懸念を表したフレーズである。しかし、今や、所有から使用への転換という、別の意味を付与してよいかもしれない。私たちが、真剣に脱近代を求めているからであろう。

2020年7月17日金曜日

県内ツアーキャンペーンはいいけど、

東京の練馬区に住み、蓼科の東急リゾートタウンに、リゾートマンションを昨年購入し、森の空気の良さを享受する別荘ライフを楽しんでおります。
しかし、今年の新型コロナウイルスの感染問題の影響で、県をまたいで蓼科に訪れることも憚れるような事態になり、公式にも、来てほしくないと、明言され、忸怩たる思いをしておりました。
6月19日の解除を待って、すぐに訪れ、この地の緑と、何より、空気のおいしさ、においに、改めて感動し、購入してよかったと、改めて、思い至りました。
しかしながら、観光キャンペーンが、例えば、北八ヶ岳ロープウエイの県民割引や、また長野県の「長野県ふっこう割~あなたの旅で、長野を元気に~」「ちの割」なども、長野県民限定、と明示されています。
ご存知のように、私たちのような別荘保有者には、市・県民税(家屋敷)が課税されています。sikasi,
課税に際しては県民に準拠、キャンペーンでは、県外扱い、というのは、身勝手な論理に見えます。

これからたくさん登場するであろう、観光キャンペンに、考慮されることを、願います。
ちなみに、ちの飲食店応援チケット「Yell Yell Yell(エール エール エール)」には、さっそく賛同し、購入申し込みをさせていただきました。

私たちも県民に準じた取り扱いをしていただけるご配慮をお願いします。

選挙の当選確実が早すぎ


今回の東京都知事選は現職有利といわれ、ただでさえ、投票に行こうかどうか、にぶりがちでした。しかし、いつもながら、投票締め切りの8時を過ぎると、すぐに当選確実が報道されます。それも開票率0.1%にもかかわらず、です。公式発表でなく、いわば予想なのですが、候補者にインタビューをし、万歳三唱もされます。
しかし、0.1%とは、私たちの投票がほとんど開かれていない時点です。たしかに、出口調査や事前の調査によって、統計的に確実なのでしょうが、国民としては納得がいきません。私たちが、投票に行っても行かなくても結果には影響がないのだという、選挙への無力感でいっぱいになります。
せめて、開票率50%程度になってから、当選確実を出すよう報道を自粛してほしいと思います。