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2022年8月23日火曜日

中島みゆきに想う

 中島みゆきを、1975年ヤマハのポプコン、「時代」でグランプリ受賞のころから聴いている。テレビ番組のテーマソングなども数多く手がけ、もはや国民的シンガーソングライターといってもよいだろう。

しかし、その歌詞にはいつも、努めて明るくふるまっている強がりの姿が見え隠れする。「時代」は、“そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ、あんな時代もあったねと、きっと話せる日がくるわ、だから今日はくよくよしないで、今日の風に吹かれましょう”、今はつらいけど、そのうちよくなるという淡い希望を忍ばせて、今の自分の背中を押している強がりを感じる。

「地上の星」は、“見送られることもなく、見守られることもなく、地上にある星をだれも覚えていない”、ここにも孤独な自分を奮い立たせている自分の姿が感じられる。もちろん、NHKの看板ドキュメント番組「プロジェクトX挑戦者たち」の主題歌で、堂々たるメジャーな曲なのだ。しかし、この寂しさは、挑戦者たちに共通する孤独感、寂しさを表しているのだろうか。番組のほとんどは苦難への挑戦にハッピーエンドが待っているのだから、もっと明るくてもよいのではないか。

「空と君との間には」は、“君を泣かせたあいつの正体を僕は知っていた、引き留めた僕を君は振り払った”、いつも中島みゆきにとっての“僕”は、陰で耐え忍んでいる。これも、日本テレビ系ドラマ「家なき子」の主題歌だ。

「ファイト」は、“闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう、ファイト、冷たい水の中を、ふるえながら登っていけ”、この歌は、生命保険会社のCMソングで、野球少年がバットを振る場面のバックに流されている。明るい風景のはずが、ここには、見下された“君”が汗をかきながらではなく、冷たい水の中でもがいているように見える。

「狼になりたい」は、“夜明け間際の吉野屋では、・・・わらえるやつはいいよねあ、みんないいことしてやがんのにな、ビールはまだか、狼になりたい、いちどだけ”、ここでも、壊れそうな自分を抑えて、そして、自分を鼓舞し、馬鹿にするな、アイツら、今に見ていろ、と、つぶやいている“僕”がいる。

中島みゆきの歌は、恨み節といわれることが多いが、恨みというテーマは演歌でも多い。藤圭子の「夢は夜ひらく」は、“15,16,17と私の人生暗かった、過去はどんなに暗くとも、夢は夜ひらく”と、つぶやく。ここには特定の個人への恨みはない、“私”の過去の境遇に対する恨み言であっても、加害者を恨むのではなく、過去を振り返りながら、かすかな夢を見つけようとしている。

中島みゆきの歌は、いつも被害者の視点で加害者を眼前で見つめている。動こうとして動かない自分にコンプレックスを感じながら、“僕”は被害者として加害者を恨んでいるかのようだが、そこに加害者の姿は見えない。では、“僕”の被害妄想なのだろうか。中島みゆきの歌の世界は、被害者と加害者の対立状況を作り出しているが、加害者は姿を見せない。

被害妄想は、被害が妄想であること、つまり、本当はなかったのかもしれないのである。しかし、それは加害者の側に害を与えている意識がないのかもしれない。被害を受けている本人にしか感じない感覚かもしれないし、あるいはそう思っていることがすべて妄想なのかもしれない。自分にしか聞こえない音はすべて幻聴なのか、自分にしか見えない光はすべて幻覚なのだろうか。動物たちの中には、人間が見ることができない暗がりでの光が見え、可聴域を超える音を聞き取るものもいるという。人間でも普通の人が見えないもの、聞こえない音を把握できる人がいてもおかしくない。

被害者がいて加害者がいないということは、私たちが他の人を傷つけていても気付かないということかもしれない。自分の成功の裏に、選ばれた幸福と、選ばれなかった不幸が表裏一体にある。win winとは言うが、そう簡単ではない。

ウクライナが被害を受けていることは膨大な画像からほぼ間違いない事実である。しかしロシアもNATOの拡大に脅威を感じていると、被害者を装っている。これは本当に被害なのか、被害妄想なのか。交通事故では加害者の家族も被害者であり、ある気味で、加害者も被害者という。いじめの加害者もまた被害者だという論者もいる。中島みゆきの世界にもまた被害者しかいないのだろうか。

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