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2017年10月8日日曜日

デザイン思考による新たなit投資マネジメントの視座 ~「IT投資」が本当の問題なのか~

私たちは、ものごとや現象が起こると、それは結果であって、そこには必ず原因があると考えるのが普通である。当然、時間的経緯からすれば原因が先で結果は後ということになる。運転手がよそ見をしたから事故が起こった。それは一見、原因と結果が非常に明確なように見える。私たちはこれを因果関係といって、いわば近代的な科学観の基本、つまり、y=f(x)と書いて、定式化するのが常道である。

風が吹くと桶屋は本当に儲かるのか

デジタル化するうえで、このような定式化は、また、今ではIoTの基本でもある。ものごと、現象はもともとアナログであって、数値化されているわけではない。風が吹けば桶屋がもうかるという因果関係も、時速、XXmで吹いているのではなく、風が吹いている状況を、測定器を使って、XXmであると、計測されたのである。数値化、すなわちデジタルデータで表現することの利点は、数値処理、つまり計算しやすくなるからである。風がどのくらい吹けば、桶屋がどのくらいもうかるかが分析できるからであり、いわば、因果関係を明確にすることが科学的とされる。
さて、風が何m吹くと目にゴミやほこりが何g入り、何%の人がそばに目を洗う道具を持ってないから、桶を買いに行く、という因果関係の積み重ねはありそうでもあり、なさそうでもある。これらの個別的な因果関係がたとえ10%あったとしても、重ねることによって、1%以下、0%へと限りなく近づく。たしかに、各々の関係は排除できない、いわば原因と結果の関係を認めることはできるけれども、それはどんどん小さくなり、果たしてエンドツーエンドで、客観的な因果関係といえるかどうかは極めて怪しいといえる。
問題はこの状況をどう表現し、どう認識するかにもある。ほとんど可能性がないと言えば、それはゼロに近いと感じる人も多いが、可能性がないとは言えないといわれれば、多少はあるかもしれないと感じる。それは受け取る人の感覚、いや気持ちや願望、意見に左右される。
可能であって欲しい人にとっては、ゼロではないという期待を寄せ、可能性がないと思っている人にとっては、ないのだと確信する、いわば、受けとるほうもどう受け取りたいかという願望を重ねて受け取ることになる。
このように考えれば、因果関係連鎖の正しさは、数値の客観性にあるのではなく、主体の側と受け取った側の関係性において、社会的に構成されるといってもよい。つまり、可能性があると思っているグループであれば、ありうるという意思疎通がなされ、可能性がないと思っているグループであれば、ありえないという意思疎通がなされる。いずれにしても、自分にとって都合のよいコミュニケーションが形成されることはまちがいない。

システム化の効果はIT投資のみによってもたらされるのか

このような因果関係の問題は、私たちのIT投資マネジメントにおいてはしばしば登場する。10億円投資して15億円が2年後に効果として回収される、という投資案件は、利益を生むものとしておそらく採用されるに違いない。しかし、不確実性が高いなど、ここで用いられる費用対効果の因果関係モデルが、厳密には適用しにくいと常々指摘されている。
Webショッピングサイトを作成し、取扱商品をネット販売するようになったとしよう。それを見た顧客が注文をし、売り上げにつながることを期待してのことである。しかし、それは顧客が見てくれたら、それを買ってくれたら、という仮定の積み重ねであって、Webに掲載したらかなりの確率で購入される、というのではなく、キャンペーンや、商品の魅力、時期などが組み合わされており、それらからWebでの効果を切り分けることはほとんどできない。取り出せないのに投資対効果を検証することなど、まったく不可能であり、検証できないのなら、その仮定はいつまでたっても仮定でしかない。因果関係の正しさを立証することなど、未来永劫不可能である。つまり不確実であるばかりでなく、正しさも立証できないことが大きな問題なのである。
Web担当者は、Webの効果だというだろうし、商品担当者は品揃えがよかったという。広告部門は、広告が効いたというかもしれない。どれも正しいかもしれないが、どれも立証はできないのである。つまり、自分の都合の良いように、解釈できる。それは、しばしば声の大きな人の意見が通りやすいという現実が示している。
このように売り上げ増大効果は、それこそ風が吹けば桶屋がもうかる程度の関係性しかないといえる、では、コスト削減効果は、そんなことはない、明確だというかもしれない。IT導入によるシステム化によって、業務の効率化、無駄が排除でき、生産性が向上したとしよう。しかし、社員を解雇しない限り、キャッシュフローを生み出すことはない。遊休の能力を生みだしただけであって、それを有効活用するかどうかは、経営者の人的リソース管理の問題である。つまり人手不足であれば、採用抑制につながるが、人余りであれば、その人材をどう配置するかによる。従って、生産性向上効果は、客観的に決定されることはなく、主体の行動に依存するのである。このようなシンプルなケースでさえ、客観的な因果関係をモデル化するなど困難なのである。

自分に都合の良い因果関係モデルが「事実」となる

モデル化は、いわば、現象を自分が理解しやすいよう、そして他人に説明しやすいように抽象化、単純化するのであって、そこには、一定の目的があり、それは主体の考え方を映し出したものである。従って抽出したモデルの有効性は、もはや客観的でも一般的でも、また、再現可能でもない。
現代の、極めて複雑な社会システムとは、言い換えると、複雑な因果関係から成り立っており、地球の裏側での一見、無関係に見える事象が、突然、日本に影響を与えることも不思議ではない。不確実で予想困難な時代という意味は、因果関係でことを把握し、説得しようという試みが必ずしも成功しないことを象徴している。そのような時代背景においては、何が正しいかではなく、何が自分にとって役立つか、あるいは何が他人を納得せしめるかという認識における基本軸の変更を引き起こす。
考えてみれば、少し前まで、地球は丸いというのは説得力が持たなかったし、地球の表面にプレートがあって、それが、定常的に移動するなどとは、誰も信じなかった。今でも、人とサルの祖先が同じであることを信じない人は少なくない。科学の進歩によって、正しいことがどんどん明らかになったと見ることも可能だが、それでもなお、その正しさを認めない人も少なくないし、正しさを理解できない人も相当いる。みんなが言うから、エライ先生が言うから、教科書に書いてあるから、など、まさしく、Wikipedia、に書いてあるから、Googleがそう言っているから正しいというのと変わりない。真実であることを納得しているのではなく、納得するふりをすることが、実践的、つまり、生活や仕事をするうえでまことに都合がいい、あるいは、そう思わないことが、社会秩序上、不適切、損だとして、避けているだけかもしれない。
トランプ大統領が選挙中に流した「事実」が、その後、事実でないことがわかっても、それを認めもしなければ、支持者も裏切られたと言わないのは、何故か。正しいことが立証できないのであれば、多くの人はどの情報を信用に足りると考えるだろうか。たとえば、情報に希少価値がある場合、それは、正しいかどうかは大きな問題ではある。砂の中に金が埋まっているとして、拾いながら、それが本物かどうか、確認しながら探すであろう。しかし、そこに、膨大な金が落ちていれば、もはやそれが本物かどうかよりも、好きかどうか、に興味がいくかもしれない。
いまや、Googleに尋ねれば、膨大な情報が入手できる。その際に、もはやそれが正しいかどうかに興味はなく、おそらく正しいのだろうと思い、あとは、自分にとって、役立つか、好ましいか、都合がいいか、に興味が移ってしまう。選挙中に言った嘘が真実かどうかよりも、自分にとって耳触りがいいかどうかが大事なのである。所詮、正しいかどうかは、わからないのだとなれば、余計である。
現在、 ゼロ金利であれば、株高が起こってよいはずが日本では起こらなかったし、米国の利上げは株価の引き下げを生じていない、これらの説明が金融専門家においてさえできないという。今、円高になったとして、その原因を輸出増だけに求めることは困難になっており、事後にそれを検証しうる手立てもほとんどないと言って良い。社会現象を再現しうると考える実証的理論(positivism)の方が非現実的なのであって、それこそ実証的とは言えない。原因を探しそれを除去することで、確かにそれが原因なのだと、特定することはきわめて困難であって、そのような方法論に頼ることなどできないことも、明らかである。この世界と社会を実験室で再現するという発想自体が、とんでもない、ことなのである。
Eラーニングの効果を、実施したグループと実施しないグループとで比較することで、その効果を検証するという手法が、いかに馬鹿げたことかは、普通の感覚からすれば当然、すぐわかることである。しかし、そのような手法を求める研究者が後を絶たないのも事実である。
中小企業のIT投資が少ないから、中小企業の業績がよくならない、生産性が悪いとしばしばいわれる。誰もがわかるように、IT投資が少ないから業績が悪いのか、業績がよくないからIT投資に振り向けられないのか、どちらが正しいともいえない。つまり、どちらが原因でどちらが結果であるか、特定困難な因果関係もかなりあるはずである。
課税の仕組みにも同じことはいえる。受益者負担の原則から言えば、多くの福祉の援助を受ける人が、多く税を負担すべきであるとも言えるが、しかし、この層は、一番、税を負担できない人たちともいえる。今の仕組みは、受益者負担と負担可能度合の2つの相矛盾する原則を組み合わせることで、税額を調整しているといえる。
少なくともクラウドの時代では、IT投資したから生産性があがり、業績があがる、というのは正しくない。投資ではなく、活用が問題だからである。

デザイン思考が因果関係モデルを超越する

このように、原因と結果が一方向の関係とは言い得ない状況を、今日、様々な状況において、私たちは感じている。金融市場においては通常、企業業績がその会社の株価を形成する、いわば日本企業全体の業績が日経平均などの相場を構成すると考えるのが、一般人の常識であって、つまり業績が原因であって、株価は結果であると思われている。しかし、現行の株価の形成は、そう一筋縄ではいかない。たとえば、景気期待が高まると、株価が上昇し、株価が上がれば資産効果で、個人株主の購買意欲が高まり、消費者を顧客とする小売業の業績に好影響をもたらす。それに伴って、小売業が投資を行えば、情報産業、機械産業などへも波及する。このような因果関係が成立つとするならば、金融緩和によって、資金が金融市場に投じられることは明らかに株価を引き上げ、企業業績を向上させる。その資金が、企業の設備投資に使われなかったとしても、である。
金融政策においては、市場との対話が大事といわれるようになって、中央銀行や金融政策当局が将来の金融政策の方針を前もって表明する、いわゆるフォワードガイダンスが対話の手法として各国で用いられるようになったが、そこでは互いにポーカーのように相手の様子をうかがいながら、次の一手を考えている。何も起こっていないのに起こるかもしれないというだけで、相手に行動を促し、それが、こちらに好影響をもたらすことを期待している。利上げすることをにおわせながら、物価を上昇させ、景気引き締めをかけようとする。このような行動は、もはや因果関係による結果ではなく相互作用を前提とした行動の喚起であって、これらは従来の因果関係決定をもってしては解釈不能であり、囚人のジレンマで知られるゲームの理論がしばしば用いられる。ここでは、相手の情報がわからないための結果として両者の利益が低減するため、互いに手札を見せ合うことが両者の利益を最大化させるという。原因によって結果が生じるのではなく相手の出方、言い換えると原因と結果が連鎖しながら事態が進行する。
このように考えれば、一つの原因によって一つの結果がもたらされると考えるほうが、普通ではない。複数の原因と複数の結果が相互に繰り返されることで、現在の事象というものが結果として現れている考えるほうが、普通の感覚に近い。しかし、これでは、分析も知見も得られず、したがって予想もできない。このような世界を、わからない、神秘的な姿とするのであれば、古代のような何か絶対的な存在の力によって動かされていると考えるほうが、おそらく、好都合に違いない。モデル化と称して現象をできるだけ自分の都合の良いように解釈し、それを共有する人たちだけで、交流するというのも、あながち、悪いことではない。学会はそのために機能しているし、少なくともその人たちの間では正しと信じられていることなのである。それを多元的ということはたやすいし、多様な価値観といっても、受け入れやすい。しかし、では真理というのは破棄されるべきなのだろうか。因果関係を示さない真理があるのだろうか。
そこに、個別の因果関係の積み重ねに基づかない、いわば現実を複数の要素間の関係性でとらえる「システム」という発想が求められる所以がある。しかし、それは俯瞰でき全体像を把握する手段であるが、説明可能だ、わかりやすい、ということであって、それが正しいかどうかわからない。けれども、次の行動を引き起こす動機になり、行動はそのようなあいまいな因果関係によって生じざるを得ないという現実を受け入れることでもあり、また、そういう時代なのだという、なんとなく、了解を得られやすいのも間違いない。
私たちはすでにIT投資マネジメント領域に、利害関係者間の合意形成モデルを提起することによって、デザイン思考の入り口に入り込んでいるのは間違いない。そこでは、経営者、情報システム部門、利用部門という主体としての「誰か」と、各々の「目的」を、そこで用いる妥当かつ適切な手段、方法、論理を示し、それらの合意を形成するための協調的モデルを提示してきた。それは、異なる「誰が」が異なる「目的」を達成するという、立場を超えたモデルをデザイン思考で俯瞰することと同義であり、均衡点を探索するための道筋を示してきたともいえる。つまり、過去のデータから因果関係を決定するのではなく、未来志向での調整の方法論を検討してきたのである。
人工知能の時代は、蓄積されたデータによってどのように推論しどのような結果が示されたかの追跡がもはや困難になっているといわれる。システム思考、デザイン思考の流布はそのような危うさを持ちながら、しかし、因果関係理論に頼ることもできないという現実のなかで、よりベターな解を提供しうるものでもある。





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