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2009年6月11日木曜日

言葉と文字について(1)

私たちは、何気なく言葉を話し、書くときに文字を使う。話しているのを書きとめるのが文字だと思っているし、伝達するための文書も、文字で書かれるのを基本としている。たしかに、話すため言葉と書くための文字は表裏一体に思える。つまり、書き言葉と話し言葉というけれども、それはきわめて近い道具だと思っている。
しかし、考えればすぐわかるように、アフリカの国には母国語という言葉を使って話はするが、文字をほとんど使わない国や人種は数多くある。また、歴史的にも文字を自分で作り上げる人種はほとんどいない。どこかから移転されたのがほとんどである。ことばをつかって話すことは、移転なのか、自然発生なのかを検証することはほとんど困難である。経緯が残されていないからである。しかし、文字がどう伝わったかはかなり検証できる。文書が残っているからである。
これだけ、みても、言葉を話す、ということと、文字を書くということの間には、大きな隔たりがあるように感じざるをえない。

2009年5月31日日曜日

「断らない力」もあるはずだ(6)完

勝間さんがいう「断る」は、単に断るのではなく、流れにそうだけではなくて、もっと自己主張をすべきということを啓蒙しているのだし、私が、「断らない」というのも、安易に受け入れればいいというのでもないという意味で、勝間さんと私の位置はそんなに遠くないのかもしれない。
もちろん、断るかどうかは、能力の問題という以前に、仕事の需給状況に依存する。仕事がなければできる限り断らないであろうし、仕事が手いっぱいであれば、断りたくなるのは当然である。
基本的に、多くの仕事をしようとしても、資源には限りがあるので、優先順位をつけて、価値の高い仕事に集中するというのは業務やビジネス遂行の基本であるといってもよい。
しかし、この議論には2つの点が重要である。
第1に、資源は有限ではあるが、人の能力と生産性には大きな相違がある。仕事をうけても、それをタスクに分解し、優先順位をつけ、過剰品質にならず、不要な仕事を排除するのは当然として、さらに、本人がノウハウや情報が不足していれば、他に人に依頼することは通常のことである。その際に交渉する能力の有無が生産性に大きくかかわっているというのも常識である。つまり、自分の能力以上の仕事を実施できるかどうかも、またその人の能力である。
第2に不確実性をヘッジしておくことが不可欠である。その仕事が、今日、価値のないとおもっても、あすには、価値を持つこともあるしその逆もありうる。とすれば、簡単に断るのではなく、受け取るか、保留にしておいて状況を見ながら最終判断するというのもきわめて重要である。日本のビジネスピープルには「やりすごし」の能力が備わっているといった人材管理の研究者がいる。つまり、依頼者が本気で依頼する時もあるし、大した気持もなく依頼する時もあるのでしばらくやり過ごせる能力が業務遂行上きわめて重要だと主張している。であれば、断らずに、とりあえず受け取っておき、依頼者の顔色を見ながら最終判断をするというのも、賢い手段であろう。完璧な資料を作るのではなく、不十分な報告書をあえて出して、依頼者の本気度を探るというのも、現場でしばしば見かける処世術である。
まさしく、断るということにこだわらなくても、また、断われないから受け取るのではなくあえて、断らないことで、自分の能力を誇示し、能力向上の機会を探るというのは、まさしくありうることなのである。

昔、ある野球選手がこういっていた。ベンチからセンターの選手に、「前にでろ」、という指示があったら前にでて、また「後ろにさがれ」、とわれたら、とりあえず後ろに下がり、でも、結局、自分が正しいという位置に移動して守るんだと。最後は、結局、自分の仕事なんだからと。

2009年5月22日金曜日

「断らない力」もあるはずだ(5)

さて、断れないのは、主張がないことを意味しているという。 ほんとうにそうだろうか。
日本人が、自己主張をしないことは一般によく言われる。ノーといえない日本人、あいまいな日本人の背景に、あまり自分の意見をいわないことも、日本人のよくない点とされる。
たしかに、国際的な会議でも発言は少ないし、欧米人や中国人が、口にあわを飛ばしながらよくしゃべるのに対して、日本人は沈黙をむねとしているともみられている。
しかし、主張をすることはそんなに価値があることなのか、価値が高いことなのだろうか。2つの点で疑義がある。第1に、根拠があいまいにもかかわらず、主張するのは偽装ではないだろうか。いいかえれば、無知にもかかわらず、本人が理解していないだけなのに、自己主張を強調することはあまりにもピエロにしかみえない。
ある高名な学者が強く主張している時に、その根拠をたずねたら一言、日本人は単一民族だからと、いわれ唖然としてしまったことがある。彼は単に地位を利用していいかげんな主張していただけである。合理的で妥当な根拠があったわけではなかったわけだ。
第2に、明確に主張をするということは、いわば、ゼロとイチ、にわけろ、yes、noをはっきりしろということだが、簡単に2つに分けらることはそんなに価値が高いことなのか。あいまいであったり、その中間的な解がある場合はすくなくない。それをはっきりしろとせまって、中間を排することは、誤りしかおもえない場合が経験的にも多い。英語でさえ、insistということはほとんどない。あえて断定せず、mayを使うことも洗練した表現とされている。また英国では、badといわずnot goodというように婉曲にいうことが奨励される。成熟した言語ほど、あいまいに言いまわす言語技術をもっている。進んだ国だから主張をきちんとするのではなく、成熟しているからこそあいまいな表現をしているのではないか。

2009年5月13日水曜日

「断らない力」もあるはずだ(4)

では、なぜ断らないのか。それは企画の立場を考えてのことなのか。No、。一言で言えば、それはおおきな機会だと考えているからだ。自分のイメージしていないテーマであればあるほど、興味深いチャレンジになる。今までのシナリオと異なる内容を作る機会に恵まれたと考える。もちろん、気に入らない依頼もないわけではない。特に原稿依頼に多い。しかし、内容を作る前に、自分をつくることを大事にしている。自分の気持ちを作る前には、つまり、その気になる前には決して書き始めない。
もうひとついえば、依頼者に貸しを作ることの価値である。人的ネットワークが大事とはよく言うが、単に友達を作るだけが大事なのではなく貸し借りを作ることが重要だとおもっている。貸しをつくれば、次には依頼しやすい、借りていれば、何かで返そうとする、そのような付き合いが、貸し借りであり、ビジネスの基本だ。
一回一回を機会主義的に、是々非々で対応する人をあまり信じないことにしている。そのような人は、いざと言うときに助けてくれないからだ。自分ひとりでは多くのことはできない、人の助けなしにはおおきな仕事ができないのは当然だ。そのときに、助けてくれる人、できれば細かいことをいわずに、すぐに応援してくれる人たち、これを人的ネットワークとぼくは読んでいる。こういうネットワークを築くためにも依頼はできるだけ断らない、いわば資産になりうると考えているからである。

2009年5月11日月曜日

「断らない力」もあるはずだ(3)

依頼するときには、ある期待をもって適任と判断したから仕事を依頼する。それを断る人は、期待にこたえる能力と自信がないのだと判断されるかもしれない。さらに、たいした根拠もなく、断る人を、信用できない人として、2度と、依頼しないかもしれない。依頼する側を経験した私は、まちがいなく、そう思った。決して、自己主張のある、能力のある人とは思わなかった。
最近、おこったことだが、適任として依頼したが、内容に自信がもてない、まだ、未完成だだということで、断ってきた。その内容は、とても、光るものがあるから、進行段階の内容でいいから、話してほしいといったが、それでも、断ってきた。こうなると、実は、無内容なのではないか、あるいは、私に悪意を持っているのではないかと疑ってしまう。そして、2度と依頼することもないし、逆に依頼されても断ろうと思ってしまう。

2009年5月10日日曜日

「断らない力」もあるはずだ(2)

私が断らないのはなぜか。もちろん、すべてが気に入った企画であるわけもなく、そして、私が必ずしも適任だろうか、という疑問をもつことのもしばしばある。では、なぜ、断らないのか。
今までの仕事のなかで、依頼することのほうが多かったことはひとつの理由である。依頼する側の経験からいえば、断られることが一番、いやなことであることもよく理解できる。依頼するときの状況からすれば、明確に依頼内容を定義できていないこともあるし、単に、講演依頼に多いのだが、全体の基調となる話を、一定時間埋めてくれることが一番期待されている。聴衆の満足を与える内容であることはももちろん、重要であるが、時間オーバーであったり、遅刻したり、全体とチグハグな内容であたり、ドタキャンなどのリスクのない講師、そして、断られないことは、非常に重要である。断られれば、また、いちから次を探さないといけない。そして、開催時期が近くなるほど、断られるリスクは大きくなる。予定が入ってしまっている可能性が高いからである。
私に依頼が来るとき、どうみても、ほかを断られた末に、私にたどりついたと察せられる案件もしばしばある。その意味では、企画サイドからすれば、私は断られない部類に属しているのかもしれない。では、そこで断らないのは、自己主張のない行為なのか、生産性を悪化させる行為なのか。あらためていえば、時間的問題がなければ、断れないのではなく断らないのである。なぜか。

2009年5月5日火曜日

「断らない力」もあるはずだ(1)

勝間さんの「断る力」を読みながら、「断らない力」というのも意味があるように思えた。
私は、依頼された仕事、たとえば講演、原稿、委員の依頼を、時間の都合がつく限り、まずほとんど断らない。したがって、勝間さんからいわせれば、おそらく、自己主張ができず、生産性が悪い、いわゆる仕事が出来ない人間と分類されるに違いない。
しかし、私は確信犯的に、断らないことにしている。やむなく断らないのではなく、断らないことを、基本としているし、自分の生き方の戦略だとさえ思っている。
では、それは自己主張しないことになるのか、生産性を悪くすることなのか、いくつか述べてみたい。

2009年5月2日土曜日

勝間和代さんの『断る力』を読んで

話題のベストセラーを読んでみた。楽しい本だった。断ることができるということは、イコール自己主張ができるということで、これがかけているから、仕事ができないのだ。断れない、しなくてもいい仕事を抱え、生産性を悪くしている。当然、成果もでない。まず、断ることが大事なのだという主張は、さすが、キャリアウーマンの代表たる勝間さんの面目躍如といったところであろうか。
海外の会議などで安易にyesといったり、うなづいてはいけないというのは常識で、yesといわずgood程度でお茶をにごすのは、よくやる手だ。そして、No、あるいはI can't understandといわないといけない。もちろん、ベルリッツのCMではないが、Noといった途端にWhyと聞かれるのがいやだから、英語で説明するのがいやだから、とりあえず、Noと言わないことにしよう、とはありがちなことだ。もちろん、外交でも同じで、石原知事が昔、出版したように、「NO」と言える日本、はだいじなことだ。この本は、そこにも一脈通じるものがある。
このような文章がまだ、ベストセラーになることに、一抹の感慨がある。まだ、女性がこういう発言をすることを好む風潮が、日本のなかにあることに驚きを感じてしまった。多くの女子大生をみていても同じように感じることがある。自己主張は、たしかに男性よりも強くなっているように思えることは多い。はっきりとものをいい、ことわるときははっきりことわる。それに比べて男性がはっきりものをいわず、やわに見えてしまうのも、あるいは、当然なのかもしれない。したがって、断れることが能力だと見てもおかしくない。しかし、それは過信なのではないだろうか。はっきりものをいうことが、はっきりものをいわないことよりも、常に、優位だとは思えない。「断れない」、ではなく、「断らない」ことが、重要な能力である場合も少なくないのではないか。

2009年4月9日木曜日

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか(2)

学会を設立するときの思いは多様ではあるが、共通して研究するためのコミュニティ、研究の場と交流の場を作りたいという気持ちであることがほとんどである。
しばらくすると、学会関係者の多くは次のような希望をもつようになる。日本あるいは、世界に知られるような学会になりたいと。そのために、学術会議に登録され委員や理事を送ることで影響力を高め、各の高い学会といわれるようになりたいと。
たしかにそうなることで学会メンバーも格の高い学会に加入し、そこで学会誌の格もあがると考え、それは会員のメリット、サービス向上にもつながると考えるのは当然である。そして各の高い学会誌にふさわしいようにと投稿論文への査読も強化し、質の高い論文を掲載しようと投稿要領の改訂や制度の充実を図ろうと尽力する。決して割ることでなかったはずである。
しかしながら、現実は、そうはいかない。各の高い学会誌になろうとすればするほど質が低下する。学会メンバは、学会誌の質の低下を嘆くようになる。まさしく、ここに学会誌のパラドックスが生じることになる。四つの向上を目指したのに、逆に低下してしまうのはどうしてなのか。

2009年3月16日月曜日

隈 正雄さんの「SEのための「経験則的」要件定義の極意 」を読んで

特徴的な主張にあふれている。これまでの研究がシステム開発手法や経営・経済からのアプローチで、業務のシステム化には役立ちにくい、と述べる。当然ながら、経営情報学とは経営と情報の学際的な領域であるため、それ自体の意義が問われるのは当然である。そこに空白があると主張するこの本は、まさしく経営情報学とは何かを、問い直そうとしているように読める。 
それを難しい議論ではなく、あくまで現場からのメッセージ、ノウハウ集にみせているところがこの本の大きな価値であろう。
しかし、批判の観点を2つ示しておきたい。第1に、中核としての経営情報学が存在
するとして、それは”そのもの自体は不可知”なのかもしれないことである。いつまでも追い求めるメーテルリンクの青い鳥のように、あるいは、玉ねぎのように、かわをむいてもまたかわがあり、いつまでたっても、中身に到達しえない類の問題なのかもしれない。1の半分は1/2で、その半分は1/4、その半分は1/8というような無限に極小に近づくことはあってもゼロにならないもどかしさを、常に感じながら、隈さんの英意も続くのかもしれない。
第2に、ではそのものは、そのもの自体として追及可能かという疑問である。他との関係からそのものの存在が明らかになるように、いわば、月が太陽のおかげで存在をわれわれに知らしめることが可能であるように、。他の学問領域との関係でしか、経営情報学も語りえないのかもしれない。その意味では、隈さんが不十分と批判した経営学、生産管理、システム開発手法も、経営情報学を語るためのツールにはなっているのではないだろうか。
隈さんが指摘する空白がどのように埋められるかが、まさしく、経営情報学の本質であり、ここにおける隈さんのこの本でのチャレンジこそ、経営情報学における最大の価値であるといえるだろう。

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか

『プロジェクトマネジメント学会誌』Vol.8, No.1(20060215) p. 1 を修正加筆

学会誌,とりわけ理論と実務に融合を目指した学会誌の評判が近年芳しくない.実務者からは,重箱の隅をつつくような研究ばかりで実務に役立たない,論文を提出しても参考文献の表記方法が厳しすぎる,と言う声も多く聞かれる.逆に学界からは,実務者は不勉強だ,研究とはいつか役に立つ可能性があるものだ,と言いたげだ.
しかし,学界の今の主流が実証研究にあることは間違いない.あらためて言うまでもなく,実証研究とは,理論モデルや経験的な事実から得られる仮説をデータによって立証する方法論であり,米国では,実証研究でなければ査読にとおらないとさえ言われる.
それならば,実務に対する知見に満ちていて当然ではないだろうか.役に立たない,すなわち有効性に乏しいというのは,なぜなのか.もちろん,論文査読において,結論から逆に導きだされたかのような恣意的で,根拠のない強引な仮説設定や安易なデータ収集を見出すことがある.実証研究のおかげで,大企業には1年に数百ものアンケートが舞い込み,“適当”に回答しているという.そのような研究をもとにして現実が正しく把握できるだろうか.このような実証研究は,現実に働きかけていないという意味で、実務に対して有効性がないのも当然であろう.しかしながら,その原因を研究者の姿勢だけに負わせるのは不充分のように思える.
研究者,とりわけ大学教員になぜ学会誌に投稿するか,と問えば,ほとんどの人が業績のためと答えるだろう.最近,特に業績評価が問われるようになり,学会誌の掲載本数がその物証になっているのは事実である.昇任や教員採択さらに文科省による教員審査でさえも本数が条件であるといってよい.しかし,2本の論文は1本の2倍の業績価値なのだろうか. 
このように考えれば,学会誌への投稿は,読者に向かって議論を巻き起こすためではなく,個人の業績計上が目的なのであり、日本の研究制度もそれを助長しているといえる.つまり,実務家と真摯に議論しようという動機はきわめて希薄であって当然である.
近年の専門の細分化に伴って,論文の主張の正しさを,査読において検証することはほとんど困難になっている.たかだか,基本的な表記上の不整合や論理的な誤り,論旨展開の矛盾,などがないことを確認しているに過ぎない. 
しかしながら,研究制度上は,“格の高い”学会誌で正しさが検証された論文が何本掲載されたかが業績評価なのだと考えられている.それは,まだ,市場から有効性を評価されたわけではないにもかかわらずである.このような場合,正しいか,有効性があるかどうかは,読者,つまり市場に委ねる方が妥当のように思える. 
そこにこそ,実務家と学界とが融合している意味があるように思える.掲載された論文を現場の眼で検証したり,実務に応用したりすることこそ,最良の有効性の検証方法ではないだろうか. 
クーンは,パラダイムの提唱にあたって,あるパラダイムを,同じ研究グループが検証し発展させるノーマルサイエンスの意義を強調した.そこで重要な役割を果たしたのは,志しを同じくする研究者同士の切磋琢磨と批判の場,真理に対して真摯に議論する場,コミュニケーションの場であり,それこそ,学会の本来の役割であり学会誌であったことはいうまでもない.その原点に今,立ち返ることこそ,有効性を取り戻すことにつながるのではないだろうか.

2009年3月9日月曜日

萌沢呂美さんの詩集「空のなかの野原」

機会があって、萌沢さんの「空のなかの野原」を読ませてもらった。
かつて、私たちの言語空間は、啄木であり、賢治、中也、朔太郎、そして志郎康だった。”汚れちまった悲しみに”に代表される、言葉と韻律は、悲しみや怒り、の表現の道具そのものだった。そして、言葉を磨くこととは、刃物を磨くように、読み手に突き刺さることを願って、研ぎ澄ますことに全精力を費やしていた。さらに、あるときは敵を倒すための道具としての言葉だった。そこで、書き手と読み手で共有していたのは、悲壮感、いいかえると、実は”ふしあわせ感”だったのかもしれない。あたかも、言葉は、死に急ぐ旅路への護身用具という矛盾に満ちた道具だったかもしれない。萌沢さんの詩集は、言葉はそんなためにあるのではないと諭してくれる。ふしあわせぶるために言葉はあるのではない、もっと身近で自分のためになる言葉のありようがあるはずだと言っているかのようだ。
花、コーヒー、空、桜、窓、光、雲、海、そんな言葉から書き出されている。たのしそうな、それこそ、しあわせさを表現し、こころを癒してくれるような思いにとらわれる。しかし、読み進むうちに、たとえば、花は爆発し枯れ、コーヒーカップの中はしぶきであふれ、光はきえ、ビルには墓石が並ぶ、、という終末を迎える。それが現実である保証はない。萌沢さんが、しわわせかどうかはわからないが、しかし、日常のなかの不条理、日常のなかの裂け目、を凝視し、無常感を潜ませていることは間違いない。梶井基次郎は、桜の樹の下には屍体が埋まっているといったが、萌沢さんもまた、みてはならないものを見ようとする誘惑にかられているに違いない。花鳥風月のようにみえる景色が、萌沢さんの世界では、妖しくたなびいているようにさえ見える。
萌沢さんは、私たちの言葉は、”ぶっている”だけで、本当は、秘すれば花、のように、何気なく時限爆弾を潜ませる道具なのだといっているように見える。”ふしあわせぶる”のではなく、”しあわせぶる”なかにこそ、言葉の価値があることを、さりげなく、教えてくれるようだ。


2009年2月27日金曜日

IT経営力大賞、授賞式にて


講演動画映像

2009.02.25, 少し話しをしました。

以下そのストーリーです。資料は、次のサイトを参照ください。

・昨年来の金融危機で2つのことを学習した。第1に、現代の経済は信用に大きく依存しており、それが拡大すれば、需要が増大し、経済も拡大する。収縮すれば、需要が減退し、経済は縮小する。第2に、ネットワーク網の整備と業務のグローバル化によって、いとも簡単に、膨大な資金が国を越えて移動できる。

・この2つは社会システムとして人類が構築してきた武器ともいえるもので、そのパワーは原子爆弾にも比肩しうるほど強力である。人類はこの武器の危険さを昨年知った。次の時代は原子爆弾をコントロールするのと同じように、注意をもって管理することが大きな命題となっている。

・この世界大不況を超えた次に、それが5年後であれば、その風景は今と大きく異なる。世界が注目しているのは、BOPマーケット、すなわち世界の最貧困層に属する40億人をどのようにして経済の枠組みに加えるかである。単に、支援するのではなく、教育し、雇用の場を作り、給与を支払うことによって消費購買層として成長させうるかである。ケニアにコーヒー豆の会社を経営している日本人経営者がすでにいる。人を育てるという日本特有の強みをいかすべきではないか。

・オバマ大統領は就任演説で、石油を使うことはテロを助長するとさえいった、だから環境にやさしいエネルギー技術にとりくむと。これは国家戦略の転換なのだ。どんな時代になっても世界は日本を必要とするはずだ。石油価格が上昇し、油田を掘削するならば、掘削機械は、日本の技術を応用せざるを得ない。環境重視になったら、やはり日本の技術が不可欠なのだ。

・マイケル・ポーターは危機こそ、有能な経営者が改革に専念できる好機だと述べる。森精機の社長も、今、仕掛けておくことが、景気回復時期に大きな採算性の向上に結びつくという。まさしく、この時期にIT経営の真価が問われているのだ。本当に役に立つのかと。

・IT経営の駆動力はIT投資余力と経営者の改革意欲だ。好況期は投資余力はあっても、改革意欲はあまりない。今の不況期には改革しなければ生き残れない、これは経営者の常識だ。いかに少ない費用で改革を実現するかを考えるしかない。

・基本戦略は、従来の初期投資モデル、すなわち最初に大きく支払って、その後、ゆっくりと効果を上げ回収するモデルから、新たな変動費モデル、すなわち、早く効果を上げ、必要な費用だけ支払うモデルへと転換することである。そのための施策が、アジャイル開発であり、Saasの活用である。それによって、経営リスクを最小にできるIT経営の構築が可能になる。
 アジャイル開発は、日本的生産システムをソフトウェア開発に応用したものである。とりわけ、必要なソフトを必要な時に必要なだけ作るという精神である。重要なのは、企業、ITコーディネーター、そしてベンダーが、分業ではなく、一緒になってチームワ-クを構成することである。
 Saasは、従来の作ることを中心に情報システムを構築するのではなく、使うことを重視した情報システム構築への転換を意味する。
 CIOは、まさしく企業の全体構造を明示し、ブレのないように、必要な情報システムを構築するという使命をもっている。
 Saasの基本は業務代行である。EDIで受注した案件を、受注者に代わって回収代行してくれるならば、中小中堅企業にとって大きなメリットである。

・IT経営が役立つかどうかは、経営者の改革意欲による。しかし、改革意欲のある経営者を今こそ裏切らない覚悟をもって支援するのがまさにIT経営なのではないだろうか。

2009年2月21日土曜日

信用収縮

現代社会では、企業間、企業と個人、個人と個人が、想像以上に大きな信頼の上に成り立っていることが、すこし考えればよくわかる。
貸出だけではなく、クレジット与信、などは、自分の支払い能力上に、購入能力を高めることができる。それが行き過ぎれば当然バブルということになる。
バブルと非バブルの境は、意外にあいまいである。
サブプライムは低所得者に住宅を提供する手法であったことはたしかで、その利益を受けた人は、リーマンばかりでなく、少なくない。
今の金融危機はサブプライムが崩壊したという要素と、それ以上に、ネットを通じて、大量の資金がグロ-バルに瞬時に移動できる手段をもったことが、この事態を引き起こしているといえる。
そして、貸し渋りがおこるのは、基本的に信用が収縮しているからであり、資金が流れなくなっているからである。いわば、現金しか、信用されなくなっているといえる。
政治にも信用収縮が起こっているとみえる。何をいっても信用されなくなれば、適切な政策が提案されても、実効性がとぼしくなる。
今は政治も信用収縮の時代に見える。

2009年2月15日日曜日

小泉元首相のすごいところ

先週から、どたばたしてますが、あの時期に、発言するということが意味あることで、いわば内容はつけたし。プレゼンテクニックの極意ですね。
いってることはしごく普通のことなのに。
1.リーダーの発言はぶれてはいけない(麻生さんはやめるべきとはいってない)
2.国民の信頼がなければ選挙は戦えない(当たり前すぎる内容)
3.給付金の問題は、2/3を使うほどの問題ではない(反対とはいってない)
これだけいったらメディアをシャットアウト。計算しつくしていることか自然体かはわからないが。
でも麻生さんのべらんめえも、実は自然体。

2009年2月14日土曜日

水戸黄門をきどっても。。

総務省と郵政、かんぽの宿の件、
みんなが喜んでいて、まさしく鳩山-水戸黄門が、西川-悪代官と宮内-悪徳米問屋、という構図にしたてようとしているのが、みえみえ。
でも、そのまえに、
総務省の官僚はしらなかったのか、、そんなばかな。
競争入札になって外資が購入するのを避けたがっていなかったのか。
総務省の意向やガイドをうけずに、日本郵政が独断でしたとは思えない。
鳩山-水戸黄門は、いまでも、官需は業者を儲けさせている、という古い構図にとらわれていないか。
最近のこと、業者が応募しない指定管理者もあるとか。儲からないのです。
とすれば、個別に各地方自治体に売却するなんて、役人のコストが膨大にかかることを好んでするだろうか。むしろ、オリックスに、受けてほしい、民営化の過程で起こったことだから、と言い含めた可能性だってある。
そんなことを総務省のトップたる総務大臣が知らないで、メディアや国民に向かって、けしからん、というのは、変だよね。自分の部下にいえばいい。社内問題にしか見えない。

2009年2月6日金曜日

BOP市場

最近、BOP(Base of Pyramid)市場に大いに興味を持っています。
世界の最貧困層の人口が40億。ここにいくら支援をしても、格差が解消しない。そこに、雇用と重要を作り出さないといけないと考えているのです。
そこを、企業が新たな市場と考え、進出することを促しています。
安価ではあっても、膨大な数が、販売されることによって、企業の業績に貢献しうるわけです。
もちろん、さまざまなリスクや不確実要因が考えられます。
しかし、ポスト金融危機を展望するとき、米国の大量消費に代わる、大きな需要を創造しなければ、世界の経済は立ち上がれないかもしれません。
そのためにも、このBOPは非常に大きな可能性を秘めていることは確かなように思えます。

興味のあるかた、意見交換をされませんか。