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2009年4月9日木曜日

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか(2)

学会を設立するときの思いは多様ではあるが、共通して研究するためのコミュニティ、研究の場と交流の場を作りたいという気持ちであることがほとんどである。
しばらくすると、学会関係者の多くは次のような希望をもつようになる。日本あるいは、世界に知られるような学会になりたいと。そのために、学術会議に登録され委員や理事を送ることで影響力を高め、各の高い学会といわれるようになりたいと。
たしかにそうなることで学会メンバーも格の高い学会に加入し、そこで学会誌の格もあがると考え、それは会員のメリット、サービス向上にもつながると考えるのは当然である。そして各の高い学会誌にふさわしいようにと投稿論文への査読も強化し、質の高い論文を掲載しようと投稿要領の改訂や制度の充実を図ろうと尽力する。決して割ることでなかったはずである。
しかしながら、現実は、そうはいかない。各の高い学会誌になろうとすればするほど質が低下する。学会メンバは、学会誌の質の低下を嘆くようになる。まさしく、ここに学会誌のパラドックスが生じることになる。四つの向上を目指したのに、逆に低下してしまうのはどうしてなのか。

2009年3月16日月曜日

隈 正雄さんの「SEのための「経験則的」要件定義の極意 」を読んで

特徴的な主張にあふれている。これまでの研究がシステム開発手法や経営・経済からのアプローチで、業務のシステム化には役立ちにくい、と述べる。当然ながら、経営情報学とは経営と情報の学際的な領域であるため、それ自体の意義が問われるのは当然である。そこに空白があると主張するこの本は、まさしく経営情報学とは何かを、問い直そうとしているように読める。 
それを難しい議論ではなく、あくまで現場からのメッセージ、ノウハウ集にみせているところがこの本の大きな価値であろう。
しかし、批判の観点を2つ示しておきたい。第1に、中核としての経営情報学が存在
するとして、それは”そのもの自体は不可知”なのかもしれないことである。いつまでも追い求めるメーテルリンクの青い鳥のように、あるいは、玉ねぎのように、かわをむいてもまたかわがあり、いつまでたっても、中身に到達しえない類の問題なのかもしれない。1の半分は1/2で、その半分は1/4、その半分は1/8というような無限に極小に近づくことはあってもゼロにならないもどかしさを、常に感じながら、隈さんの英意も続くのかもしれない。
第2に、ではそのものは、そのもの自体として追及可能かという疑問である。他との関係からそのものの存在が明らかになるように、いわば、月が太陽のおかげで存在をわれわれに知らしめることが可能であるように、。他の学問領域との関係でしか、経営情報学も語りえないのかもしれない。その意味では、隈さんが不十分と批判した経営学、生産管理、システム開発手法も、経営情報学を語るためのツールにはなっているのではないだろうか。
隈さんが指摘する空白がどのように埋められるかが、まさしく、経営情報学の本質であり、ここにおける隈さんのこの本でのチャレンジこそ、経営情報学における最大の価値であるといえるだろう。

ジャーナルはいかにして有効性を取り戻せるか

『プロジェクトマネジメント学会誌』Vol.8, No.1(20060215) p. 1 を修正加筆

学会誌,とりわけ理論と実務に融合を目指した学会誌の評判が近年芳しくない.実務者からは,重箱の隅をつつくような研究ばかりで実務に役立たない,論文を提出しても参考文献の表記方法が厳しすぎる,と言う声も多く聞かれる.逆に学界からは,実務者は不勉強だ,研究とはいつか役に立つ可能性があるものだ,と言いたげだ.
しかし,学界の今の主流が実証研究にあることは間違いない.あらためて言うまでもなく,実証研究とは,理論モデルや経験的な事実から得られる仮説をデータによって立証する方法論であり,米国では,実証研究でなければ査読にとおらないとさえ言われる.
それならば,実務に対する知見に満ちていて当然ではないだろうか.役に立たない,すなわち有効性に乏しいというのは,なぜなのか.もちろん,論文査読において,結論から逆に導きだされたかのような恣意的で,根拠のない強引な仮説設定や安易なデータ収集を見出すことがある.実証研究のおかげで,大企業には1年に数百ものアンケートが舞い込み,“適当”に回答しているという.そのような研究をもとにして現実が正しく把握できるだろうか.このような実証研究は,現実に働きかけていないという意味で、実務に対して有効性がないのも当然であろう.しかしながら,その原因を研究者の姿勢だけに負わせるのは不充分のように思える.
研究者,とりわけ大学教員になぜ学会誌に投稿するか,と問えば,ほとんどの人が業績のためと答えるだろう.最近,特に業績評価が問われるようになり,学会誌の掲載本数がその物証になっているのは事実である.昇任や教員採択さらに文科省による教員審査でさえも本数が条件であるといってよい.しかし,2本の論文は1本の2倍の業績価値なのだろうか. 
このように考えれば,学会誌への投稿は,読者に向かって議論を巻き起こすためではなく,個人の業績計上が目的なのであり、日本の研究制度もそれを助長しているといえる.つまり,実務家と真摯に議論しようという動機はきわめて希薄であって当然である.
近年の専門の細分化に伴って,論文の主張の正しさを,査読において検証することはほとんど困難になっている.たかだか,基本的な表記上の不整合や論理的な誤り,論旨展開の矛盾,などがないことを確認しているに過ぎない. 
しかしながら,研究制度上は,“格の高い”学会誌で正しさが検証された論文が何本掲載されたかが業績評価なのだと考えられている.それは,まだ,市場から有効性を評価されたわけではないにもかかわらずである.このような場合,正しいか,有効性があるかどうかは,読者,つまり市場に委ねる方が妥当のように思える. 
そこにこそ,実務家と学界とが融合している意味があるように思える.掲載された論文を現場の眼で検証したり,実務に応用したりすることこそ,最良の有効性の検証方法ではないだろうか. 
クーンは,パラダイムの提唱にあたって,あるパラダイムを,同じ研究グループが検証し発展させるノーマルサイエンスの意義を強調した.そこで重要な役割を果たしたのは,志しを同じくする研究者同士の切磋琢磨と批判の場,真理に対して真摯に議論する場,コミュニケーションの場であり,それこそ,学会の本来の役割であり学会誌であったことはいうまでもない.その原点に今,立ち返ることこそ,有効性を取り戻すことにつながるのではないだろうか.

2009年3月9日月曜日

萌沢呂美さんの詩集「空のなかの野原」

機会があって、萌沢さんの「空のなかの野原」を読ませてもらった。
かつて、私たちの言語空間は、啄木であり、賢治、中也、朔太郎、そして志郎康だった。”汚れちまった悲しみに”に代表される、言葉と韻律は、悲しみや怒り、の表現の道具そのものだった。そして、言葉を磨くこととは、刃物を磨くように、読み手に突き刺さることを願って、研ぎ澄ますことに全精力を費やしていた。さらに、あるときは敵を倒すための道具としての言葉だった。そこで、書き手と読み手で共有していたのは、悲壮感、いいかえると、実は”ふしあわせ感”だったのかもしれない。あたかも、言葉は、死に急ぐ旅路への護身用具という矛盾に満ちた道具だったかもしれない。萌沢さんの詩集は、言葉はそんなためにあるのではないと諭してくれる。ふしあわせぶるために言葉はあるのではない、もっと身近で自分のためになる言葉のありようがあるはずだと言っているかのようだ。
花、コーヒー、空、桜、窓、光、雲、海、そんな言葉から書き出されている。たのしそうな、それこそ、しあわせさを表現し、こころを癒してくれるような思いにとらわれる。しかし、読み進むうちに、たとえば、花は爆発し枯れ、コーヒーカップの中はしぶきであふれ、光はきえ、ビルには墓石が並ぶ、、という終末を迎える。それが現実である保証はない。萌沢さんが、しわわせかどうかはわからないが、しかし、日常のなかの不条理、日常のなかの裂け目、を凝視し、無常感を潜ませていることは間違いない。梶井基次郎は、桜の樹の下には屍体が埋まっているといったが、萌沢さんもまた、みてはならないものを見ようとする誘惑にかられているに違いない。花鳥風月のようにみえる景色が、萌沢さんの世界では、妖しくたなびいているようにさえ見える。
萌沢さんは、私たちの言葉は、”ぶっている”だけで、本当は、秘すれば花、のように、何気なく時限爆弾を潜ませる道具なのだといっているように見える。”ふしあわせぶる”のではなく、”しあわせぶる”なかにこそ、言葉の価値があることを、さりげなく、教えてくれるようだ。


2009年2月27日金曜日

IT経営力大賞、授賞式にて


講演動画映像

2009.02.25, 少し話しをしました。

以下そのストーリーです。資料は、次のサイトを参照ください。

・昨年来の金融危機で2つのことを学習した。第1に、現代の経済は信用に大きく依存しており、それが拡大すれば、需要が増大し、経済も拡大する。収縮すれば、需要が減退し、経済は縮小する。第2に、ネットワーク網の整備と業務のグローバル化によって、いとも簡単に、膨大な資金が国を越えて移動できる。

・この2つは社会システムとして人類が構築してきた武器ともいえるもので、そのパワーは原子爆弾にも比肩しうるほど強力である。人類はこの武器の危険さを昨年知った。次の時代は原子爆弾をコントロールするのと同じように、注意をもって管理することが大きな命題となっている。

・この世界大不況を超えた次に、それが5年後であれば、その風景は今と大きく異なる。世界が注目しているのは、BOPマーケット、すなわち世界の最貧困層に属する40億人をどのようにして経済の枠組みに加えるかである。単に、支援するのではなく、教育し、雇用の場を作り、給与を支払うことによって消費購買層として成長させうるかである。ケニアにコーヒー豆の会社を経営している日本人経営者がすでにいる。人を育てるという日本特有の強みをいかすべきではないか。

・オバマ大統領は就任演説で、石油を使うことはテロを助長するとさえいった、だから環境にやさしいエネルギー技術にとりくむと。これは国家戦略の転換なのだ。どんな時代になっても世界は日本を必要とするはずだ。石油価格が上昇し、油田を掘削するならば、掘削機械は、日本の技術を応用せざるを得ない。環境重視になったら、やはり日本の技術が不可欠なのだ。

・マイケル・ポーターは危機こそ、有能な経営者が改革に専念できる好機だと述べる。森精機の社長も、今、仕掛けておくことが、景気回復時期に大きな採算性の向上に結びつくという。まさしく、この時期にIT経営の真価が問われているのだ。本当に役に立つのかと。

・IT経営の駆動力はIT投資余力と経営者の改革意欲だ。好況期は投資余力はあっても、改革意欲はあまりない。今の不況期には改革しなければ生き残れない、これは経営者の常識だ。いかに少ない費用で改革を実現するかを考えるしかない。

・基本戦略は、従来の初期投資モデル、すなわち最初に大きく支払って、その後、ゆっくりと効果を上げ回収するモデルから、新たな変動費モデル、すなわち、早く効果を上げ、必要な費用だけ支払うモデルへと転換することである。そのための施策が、アジャイル開発であり、Saasの活用である。それによって、経営リスクを最小にできるIT経営の構築が可能になる。
 アジャイル開発は、日本的生産システムをソフトウェア開発に応用したものである。とりわけ、必要なソフトを必要な時に必要なだけ作るという精神である。重要なのは、企業、ITコーディネーター、そしてベンダーが、分業ではなく、一緒になってチームワ-クを構成することである。
 Saasは、従来の作ることを中心に情報システムを構築するのではなく、使うことを重視した情報システム構築への転換を意味する。
 CIOは、まさしく企業の全体構造を明示し、ブレのないように、必要な情報システムを構築するという使命をもっている。
 Saasの基本は業務代行である。EDIで受注した案件を、受注者に代わって回収代行してくれるならば、中小中堅企業にとって大きなメリットである。

・IT経営が役立つかどうかは、経営者の改革意欲による。しかし、改革意欲のある経営者を今こそ裏切らない覚悟をもって支援するのがまさにIT経営なのではないだろうか。

2009年2月21日土曜日

信用収縮

現代社会では、企業間、企業と個人、個人と個人が、想像以上に大きな信頼の上に成り立っていることが、すこし考えればよくわかる。
貸出だけではなく、クレジット与信、などは、自分の支払い能力上に、購入能力を高めることができる。それが行き過ぎれば当然バブルということになる。
バブルと非バブルの境は、意外にあいまいである。
サブプライムは低所得者に住宅を提供する手法であったことはたしかで、その利益を受けた人は、リーマンばかりでなく、少なくない。
今の金融危機はサブプライムが崩壊したという要素と、それ以上に、ネットを通じて、大量の資金がグロ-バルに瞬時に移動できる手段をもったことが、この事態を引き起こしているといえる。
そして、貸し渋りがおこるのは、基本的に信用が収縮しているからであり、資金が流れなくなっているからである。いわば、現金しか、信用されなくなっているといえる。
政治にも信用収縮が起こっているとみえる。何をいっても信用されなくなれば、適切な政策が提案されても、実効性がとぼしくなる。
今は政治も信用収縮の時代に見える。

2009年2月15日日曜日

小泉元首相のすごいところ

先週から、どたばたしてますが、あの時期に、発言するということが意味あることで、いわば内容はつけたし。プレゼンテクニックの極意ですね。
いってることはしごく普通のことなのに。
1.リーダーの発言はぶれてはいけない(麻生さんはやめるべきとはいってない)
2.国民の信頼がなければ選挙は戦えない(当たり前すぎる内容)
3.給付金の問題は、2/3を使うほどの問題ではない(反対とはいってない)
これだけいったらメディアをシャットアウト。計算しつくしていることか自然体かはわからないが。
でも麻生さんのべらんめえも、実は自然体。